日本ジャズ史-その黎明の時代・菊池清麿

日本のジャズ史・創世期-歴史物語のページ。昭和モダンに躍動をあたえ日本音楽史においても重要記録である。戦後の日本ジャズの隆盛は戦前の遺産無くして成立することはありえない。太平洋の向こうのアメリカのジャズシーンに敏感に反応していた。日本流行歌変遷史にも大きな影響を与えた。

 一九〇〇年代−ニューオーリンズ・ジャズ
 一九一〇年代−ディキシーランド・ジャズ
 一九二〇年代−シカゴ・ジャズ
 一九三〇年代−スイング・ジャズ
 一九四〇年代−ビ・バップ


 このようなアメリカのジャズの動向を常に見ながら、日本のジャズは歌謡曲の発展とともに繁栄の時代を築いた。歌謡曲とジャズが融合していた時代こそ、日本人のジャズ魂がもっとも輝いていた時代ではなかろうか。そして、それは、二村定一の歌うジャズ・ソングから始まる日本流行歌変遷史のスタートでもある。


《日本のジャズ史の創世期 》

 

 ジャズは、特定の個人の創造物ではない。アメリカのなかで「もっとも複雑な人種構成と地理的条件を備えていたニューオリンズという港町の特殊な社会環境と歴史的背景」(大和明『ジャズの黄金時代とアメリカの世紀』)から生まれた音楽である。黒人の特有のリズム、労働歌、奴隷としての生活からうまれた悲哀に満ちた叫び、とクリオール(フランス人と黒人の混血)が持ち込んだ西洋音楽との結合によって誕生したのである。ジャズ演奏の原型は、ロンド形式を主体とする十九世紀の西欧音楽の伝統にもとづいて作られた。それが黒人ピアノ音楽であるラグタイムである。一八九〇年代にミズリー州シダリアやセントルイスを中心に流行した。そのピアノ演奏には黒人特有のシンコペーションが盛り込まれ、ジャズの要素になった。黒人特有のリズム感と音楽的感覚、演奏者の個性が反映されるフレージング、楽器における固有の音を求めるサウンド、黒人特有の音階であるブルーノートなどがヨーロッパ音楽の楽器編成、メロディー、ハーモニーと融合してジャズという音楽ジャンルが形成されたのでる。そして、ジャズは昭和モダンの風景に心地よい響きをもたらしたのである。そして、日本最初のジャズシンガー二村定一が活躍する。『私の青空 二村定一 ジャズ・スングと軽喜劇黄金時代』(菊池清麿・著)を論創社から発売予定。



《日本のジャズの夜明け》

 日本におけるジャズの先駆は、
明治四十五年(出港してから、数日後には、七月三十日、明治天皇が崩御することになり、大正に改元)アメリカ行きの東洋汽船の地洋丸(グリーン船長)に乗り込んだ五人の青年たちにはじまる。波多野福太郎、奥山貞吉、田中平三郎、斉藤佐和、高桑慶照、いずれも東洋音楽学校(現在の東京音楽大学)の卒業生だった。この船出には当時校長であった鈴木米次郎も夏休みを利用して一緒に乗船した。彼らは、はてしなく広がる太平洋の海原を見てそのかなたにあるジャズの発祥の国に想いをはせ、期待に胸を躍らせた。まさか、この出航が日本のジャズの創成になろうとは思いもしなかったであろう。そのような歴史的評価となることもつゆ知らず青年たちは未知なる世界へと出航したのである。船中演奏は、社交室で昼夜の二ステージ。《オリエンタル・ダンス》《キスメット》《金婚式》という小品が主でごく初歩的なものが多かった。土曜はダンスパーティーがもっぱら開かれた。当然、ダンス曲を演奏する。客は外人ばかりで当時流行の曲もリクエストされる。ところがそれを知らず注文に応えることができず随分苦労した。 二週間あまりの船旅の末、アメリカ西海岸のサンフランシスコに到着した。東洋の異国からやってきた波多野らの一行は、サンフランシスコで当時のアメリカ大統領ウイルソン大統領臨席の同市で開かれた全米キリスト教派の大同団結大会に飛び入り演奏して、拍手喝采を浴びた。太平洋を渡ってやって来た東洋のグループがよほど珍しかった、というよりは、自分たちと同じような楽器を使って演奏できるということに驚異の目をもって応えたのである。 東洋汽船は、その後天洋・春洋・サイベリア・浅間・コレア丸という船に次々と楽隊を乗船させた。楽隊のメンバーは、東洋音楽学校の出身に軍楽隊や「バンド屋」、三越少年音楽隊出身たちを混合したバンドだった。彼らたちのギャラも高給だった。月平均七十円。映画館の楽隊よりはるかに高かった。また、大正二年から日本郵船でも楽隊を乗せるようになった。このように、多くの客船が上海・香港・マニラ・ホノルル・サンフランシスコ・横浜というアジアとアメリカを結ぶルートを就航し楽隊のメンバーに良い音楽の仕事を提供した。そこから、「船の楽隊」という名称が生まれたのである。波多野は、大正元年から同七年まで船上バンドとしてアメリカを往復した。その度に本場のジャズを聴いて耳を肥やした。そして、陸に上がり西銀座の洋画専門の金春館で映画の伴奏をするようになった。館主の三橋清松は、なかなか進歩的な興行センスの持ち主で、波多野のバンドに注目しオーケストラを編成し演奏させたのである(最初はヴァイオリン、フルート・ピアノの三人編成)。この頃はまだ、無声映画の時代であった。映写幕の前にはオーケストラボックスがある。楽士たちは舞台左手の袖の演台にいる活動弁士の解説とセリフ、場面の演技の進行に合わせて演奏をするのである。雰囲気を盛り上げる効果をねらって音楽を流した。また、プログラムには映画の題名と休憩奏楽の曲名が刷られていて幕間での演奏も好評であった。ここでも、アメリカでの経験がいかされた。というのは、暇つぶしに観た映画見物でその要領を会得していたからである。波多野福太郎には、榮次郎という弟がいた。彼は、金春館から五分ほどの場所にある帝国ホテルで「ハタノ・オーケストラ」を主催していた。幕間演奏のときには兄弟が合流することもあった。当時の映画館の楽隊としてかなりの水準に達していた。兄福太郎のハタノ・オーケストラは昭和初期に消えたが、弟の榮次郎の方は昭和二十年の終戦まで帝国ホテルで演奏した。この兄弟によるハタノ・オーケストラは日響の母体となりクラシック、ジャズを問わず多くのプレイヤーを生みだすことになる。ジャズとダンスホールは切り離すことはできない。ハタノオーケストラもダンスホールの創成期に活躍している。大正九年、鶴見の花月園に日本最初の常設のダンスホールが作られた。平岡静子は外国でみた社交ダンスをすっかり気にいってしまい、夫にねだって花月園の隅の建物を二百坪ほどの大ホールに改造して社交舞踏場を開いたそうだ。この花月園のホールは、外務省や海軍省の外人接待にも使用されていた。ここで最初に演奏したのが宍倉脩(ピアノ)を楽長に、阿部万次郎(サックス)原田録一(トランペット)仁木他喜雄(ドラムス)・井田一郎(ヴァイオリン)で編成された日本初のダンス専門バンドだった。大正十年、ハタノ・オーケストラは、横浜鶴見の花月園に宍倉バンドの後を継いで破格のギャラをもらって出演した。ハタノ・オーケストラはそれを継いでの登場だった。メンバーはつぎのとおり。中村鉱次郎(コルネット)、岡村雅雄(フルート)、前野港造(クラリネット・サックス)、寺尾誠一(ベース)、加藤福太郎(ピアノ)、仁木他喜雄(ドラムス)。平岡社長も有名なハタノ・オーケストラの出演を契機に大いに花月園の宣伝効果をあげようとしたのである。『日本のジャズ史 戦前戦後』に掲載されている波多野福太郎の話によると、花月園での演奏は、船上バンド時代にアメリカで購入したフォックス・トロットやワン・ステップ、ラグタイムの譜面をそのまま演奏したそうだ。アドリブはまだなかった。しかし、花月園は、波多野らの演奏が加わってから十カ月ほどで閉鎖してしまった。そして、関東大震災後はジャズの舞台を東京から大阪へと移動させるのである。


 

《ジャズの都大阪》

 

 大阪南の難波新地では、カフェー・コテージがコテージ・ダンスホールとしてオープンした。大正十二年、震災直後のことである。それまでは、バーコテージ、あるいは、カフェーコテージといって白系ロシア人のホステスが置かれていた。狭いダンスフロアーがおかれていたので異国娘が酔客を相手に社交ダンスを踊っていた。そこへ、震災後、大阪に移住して来た文化人や、官吏、サラリーマンなどがエキゾチックな雰囲気を求めて集まるようになった。そんなこともあって、高島立夫なる人物は、看板を塗り変えバー、カフェーをダンスホールに改造したのである。 コテージは、チケット制になるまではアドミッション制だった。入場料は夕方七時から夜中二時までで五十銭(後の一円)で最初七、八人いたダンサーには月二十円払った。チケット制になってからは一曲踊るたびにキップをダンサーに手渡して、売上はダンサーと経営者が一定の割合で分けるシステムに移行した。ダンスの音楽は蓄音機にジャズレコードをかけたりした。日曜日にはエキストラで映画館の楽師が二、三人ぐらい来て演奏したりした。コテージのダンスが繁盛しているという情報が伝わると、戎橋・北詰のカフェー「パウリスタ」も大正十三年にはダンスホールに衣替えをした。そして、秋にはカフェー「ユニオン」、「パリジャン」などがつぎつぎとダンスホールに変わっていった。初めはこれらのホールではレコードが蓄音器で演奏の役割をしていたが、やがて、バンドも登場するようになった。では、最初の本格的ジャズバンドの旗揚げはいつなのだろうか。宝塚をやめた井田一郎が大正十二年三月に「ラフィング・スター・ジャズバンド」を結成したのがその嚆矢である。井田たちは白いジャケットに黒いズボン、腰にはスペイン風サッシュを巻いてステージに上った。実に粋な演出だった。マネージメントは神戸三ノ宮の北尾楽器が引き受けた。ディキシースタイルで、オリエンタルホテルや山の上の東亜ホテルのダンスバンドとして出演し人気を博した。しかし、ダンスパーティーだけの契約に無理がたたってしまった。わずか五カ月で解散に至ってしまったのである。 その後、大正十二年八月に道頓堀に松竹座が開場していた松竹座オーケストラに井田は加入した。松竹座オーケストラは映画・実演で人気を集めていた。大正十三年正月公演の《王麗春》の作曲・指揮に抜擢され好評を博したが、翌年の四月東京へ上京し、秋には大浜少女歌劇団の編曲・指揮者となった。大正十四年、井田は、「パウリスタ]に強力なメンバーを集めてジャズバンドを編成して出演した。この「パウリスタ」を抜けた井田一郎は、大正十四年の暮れ大阪最大のユニオン・ダンスホールに入って、本格的ジャズバンド「チェリーランド・ダンス・オーケストラ」を結成した。このホールは、一階がカフェー、二階がホールになっていて近代的装備を誇っていた。また、灘萬カフェーでは前野港造を中心にジャズバンドができたりして、このように大阪のジャズバンドの黄金時代を迎えたのである。したがって、大阪が大衆音楽の発祥の地としての「ジャズの都」といっても過言ではないであろう。

 「大正時代の大阪には、日本を代表する大衆音楽の勃興、すなわち『ジャズの都』といった特 別の音楽環境があった。例えば、道頓堀川には粋な屋形船の上で熱演するジャズバンドがあっ たのである。本場アメカのミシシッピー河を上下するショーボートとは行かないまでも、水の 都大阪ならではの光景であったろう。」(佐野博美『佐野鋤・音楽とその生涯』)

大阪・三越少年音楽隊、大阪・高島屋少年音楽隊、うなぎの出雲屋少年音楽隊のバンドが毎週土曜日の夜になると道頓掘の戎橋の下に浮かぶ屋台舟で風景からジャズ音楽が聞こえてきた。道頓堀一帯は高級花街なので芸者たちもその音楽に刺激をうけた。河合というお茶屋の芸者たちである。その彼女らに楽器を指導して少女音楽団を組織して河合サキソフォンバンドという名称にしたのが杉田良造だった。芸者たちにクラリネットやシロフォンをもたせて大阪の待合で演奏させた。大阪のジャズ熱は相当なものだったのだ。 大阪のジャズ熱は街頭演歌師として活躍し関西レコード界に地盤を築きはじめていた鳥取春陽に刺激をあたえた。《籠の鳥》に代表される鳥取春陽メロディーのロマンと感傷にもうひとつ加えられる音楽がジャズのリズムである。あたらし物を先取りする春陽は、大阪にきてまず影響をうけたのがジャズだった。音感の良い春陽は、道頓堀の音空間から流れる音を逃さなかったのだ。 大阪ジャズの創始者杉田良造は昭和期の鳥取春陽のジャズのリズムを効かした作品を編曲している。例えば、春陽の死後、ヒコーキから発売された《満州ジプシー》(松村又一・作詞/鳥取春陽・作曲)、《ハルピン夜曲》(松村又一・作詞/鳥取春陽・作曲)《隠し涙よ》(鹿山映二郎・作詞/鳥取春陽・作曲)《胸に芽生えた恋の花》(鹿山映二郎・作詞/鳥取春陽・作曲)などがある。春陽と杉田がいつ知り合ったかはわからない。、ジャズが昭和期の春陽メロディーの主音になっていたのはまちがいないといえる。鳥取春陽の作品の編曲をしていたのが服部良一だったことは現在ではあまり知られていない。昭和五、六年頃、大阪コロムビアに吹き込みレコードのアレンジを鳥取春陽の推薦で仕事ができるようにもなったことは服部にとっては幸運であった。

《服部良一》

服部良一は、明治四十年十月一日、大阪の生まれ、彼もまたジャズの都でその感性を磨いた。道頓堀のうなぎ料亭「出雲屋」が太左衛門橋南ぎわ、カフェー赤玉の真ん前にある「角屋」という支店のレストランで少年音楽隊を結成した。大正十二年九月一日、関東大震災のあった同じ日に入隊式が行われた。服部良一の音楽人生はそこから始まったのだ。大正十四年五月に出雲屋少年音楽隊が解散すると、松竹座オーケストラに参加。同年六月に大阪放送局がラジオ放送を開始すると、すぐに局内に大阪フィルハーモニーオーケストラを結成した。当時人気の出始めていたジャズ音楽の放送のために、内職ジャズバンド(NSジャズ・バンド)が放送用に結成された。そこに服部良一らカフェー、ダンスホールで演奏していた楽士たちが集められ臨時編成のバンドが出演して演奏したのである。服部は昭和に入るとレコード会社で仕事をするようになる。昭和四年頃、コッカレコード(国歌レコード製作所)というところでサクソフォンと編曲を担当した。そして、タイヘイ・レコードの専属となった。タイヘイ・レコードの創立は古い。大正十三年、西宮市今津山中町に合資会社内外蓄音器商会が設立されたが、それが前身である。商標は金色で、昭和五年頃に当時の大日本麦酒株式会社の社長令息が経営を担当して社名が太平蓄音器会社に社名が変更したのである。一般にはタイヘイ・レコードと言われた。タイヘイ・レコードで屈辱的な仕事をしていたのが若き日の服部良一である。服部は、古賀メロディーの《酒は涙か溜息か》をもじった《酒は涙よ溜息よ》(英はじめ・作詞/服部良一・作曲)の作曲を会社から命令されたのである。服部は会社に抗議をしたが、旋律は服部のオリジナルでよし、会社のために吹き受けてくれと説得された。これは、昭和七年一月新譜で発売されている。 昭和八年八月二十六日、服部良一はディック・ミネの助言もあって東京へと上京した。そして、菊地博がリーダーとなっていた人形町のダンスホール「ユニオン」のバンドにサクソフォン奏者として加わった。翌九年二月は東京進出をはかったニットーレコードの音楽監督になった。いよいよ、作曲家としても仕事も本格的になる。 昭和十一年二月大手コロムビアレコードの専属作曲となった。当時のコロムビアは、コロムビア・ジャズバンド、川畑文子、リッキー宮川、淡谷のり子、中野忠晴など今までじっくりと育んできた服部のジャズのフィーリングを満足させてくれる陣容であった。入社第一回の作品が淡谷のり子が歌う《おしゃれ娘》(久保田宵二・作詞・服部良一・作曲)。スイング風のスピード感溢れる新しいフィーリングが伝わってくる。このSPレコードを聞くと戦前の昭和十年代のジャズのレベルの高さがよくわかる。 服部良一は、やがて、淡谷のり子が歌う《別れのブルース》(藤浦洸・作詞/服部良一・作曲)で一流の作曲家の仲間入りをはたす。大阪のジャズのサウンドで己の感性を育んだ服部良一はそのフィーリングを大衆音楽においてに見事に開花させたのである。

菊池清麿・著の『評伝服部良一 日本ジャズ&ポップス史』(彩流社)参照

《ジャズで踊る昭和モダン》

大正十四年から十五年頃、ジャズブームに乗せて大阪レコード界も活気づいていた。ジャズレコードは、大正時代から、オリエント、ツバメ印ニットー、ワシ印ニッポノホンでは、ジャズ、ジャズ・ソングといわれるレコードを相当数を発売している。演奏バンドは様々だが、当時日本に来ていた外国人バンド、フィリピン人バンドの吹き込みもかなりあったようだ。そのような中で、大正十四、十五年、二村定一は、《テルミー》《スパニッシュ・セレナーデ》《ヴァンプ》《ウィ・ハブ・ノー・バナナ》《スエズ》《ドリゴのセレナーデ》など外国のジャズ・ソングをニッポノホンに吹き込んでいた。ジャズシンガー二村定一の登場である。時代はいよいよ昭和モダンをむかえる。レコード産業も電気吹き込みという革命を経験しなければならない。昭和モダニズムという合理的消費文化に対応する音の大衆化である。すでに、大正十四年、アメリカでは蓄音機の録音にマイクロフォンの使用が始まっていた。四月にはビクター、コロムビアは五月、六月になるとイギリスのグラモフォンとコロムビアもそれに追随した。その情報は、日本のレコード会社を震撼させたといえる。大正十五年十二月二十五日大正天皇崩御。摂政裕仁親王が践祚し昭和と改元。その影響もあり翌年から諒闇の取り締まりが厳しくなり、大阪のダンス・ホールは、昭和二年十二月一杯で全面禁止となった。ジャズメンや楽士たちは、大阪から東京へと大移動を始めるのである。 昭和三年の春、東京に姿を表した井田一郎のチェリーランド・ダンス・オーケストラは三越のホールのジャズ演奏で好評を博した。そのメンバーは芦田満(サックス)、小畑光之(トランペット)、谷口又士(トロンボーン)、平茂夫(ピアノ)、加藤一男(ドラムス)に井田一郎を加えての六名だった。 彼らの演奏には即興のフェイクやアドリブが盛り込まれていた。演奏スタイルが実に本格的なデキシーランドスタイルだったのだ。しかし、演奏曲目は、純粋のディキシーランド・ジャズのオリジナル曲というよりは、《フー?》、《バレンシア》、《ハレルヤ》当時流行していたダンスナンバーがほとんどだったのである。井田たちの演奏を聴いて、東京のジャズファンのみならず、法政のラッカンサン・ジャズバンドや慶応のレッド・アンド・ブルー・ジャズバンドなどの学生は大きな刺激をうけた。初めて耳にする関西の一流ジャズメンたちの熱演に驚異と尊敬の眼差しを送ったのだった。井田たちは、三越演奏から、松竹キネマの専属となり松竹系のアトラクションの出演を経て、浅草の電気館のステージに登場した。このときバンドの名称を「松竹ジャズ・バンド」に変えている。 彼らは電気館での舞台映画の合間にジャズを演奏した。それがものすごく受けた。連日大入りの盛況だった。全メンバーのドロン事件もあったが、ドラムスの飯山茂雄、トランペットの南里文雄、サックスのリノ・カブロを加えた第二次バンド、そしてさらにメンバーを入れ替えての第三次バンドと再編成して、国産ジャズ流行歌ブームに大きく貢献したのである。とくにこの第三次井田バンドが各レコード会社で吹き込みをやり、スタジオバンドの草分けとなるのである。メリカニズムの影響をうけた昭和モダンの能率的合理的消費は、日本のレコード界の構造を大きく変えた。それは、外国資本が日本のレコード会社に導入されたことにはじまる。日本蓄音器商会は、昭和二年二月、ギングガムという録音技師を米国コロムビアから招いた。この録音機は、港区内幸町の幸ビルにあった日蓄吹き込み所に設置された。五月にはイギリスのウエスタン式電気録音機に変更。昭和二年五月その技術提携を条件にイギリスコロムビアに35・7パーセントの株式を譲渡した。強力な資本提携が生まれたのである。 昭和二年九月、米ビクターの資本によって日本ビクター蓄音機株式会社が成立した。ビクター・トーキング・マシン社の全額出資である。昭和三年一月、英国資本に米国資本(昭和二年十月日蓄の総株式の11・7パーセントを米コロムビアに譲渡)が加わって日本コロンビア蓄音器株式会社が設立した。鷲印のニッポノフォンからColumbiaにマークが変更した。同年四月には、英国コロムビア式電気録音機に改めた。黎明期の昭和のレコード産業はこのビクター、コロムビアが激しくヒット競争を展開したのである。 ビクターは発足と当時に電気吹き込み装置を完備した。最初の吹き込み所は、丸の内の馬場先門の三菱九号館三階にあった。赤煉瓦の建物である。そして、昭和三年に入ると日本・ビクター・ジャズバンド井田一郎を中心に結成した。また、コロムビアは昭和四年十月に「コロムビア・ジャズバンド」を結成した。これは、コロムビア社長、H・ホワイトのすすめでもある。昭和五年の初めアメリカ留学に旅立った紙恭輔の後任で井田は編曲・指揮者としてコロムビアに入社している。そこで、彼は、作曲・編曲に腕を奮った。昭和六年から七年にかけてのジャズ・ソングは彼の手によるものが多い。ビクター、コロムビアでジャズ・ソングをヒットさせたの二村定一である。二村定一については『私の青空 二村定一 ジャズ・スングと軽喜劇黄金時代』が本格的評伝として詳細に記されている。《青空》、《アラビアの唄》などレコードは飛ぶように売れた。

[二村定一の略歴]
 高田雅夫に弟子入りして浅草オペラの根岸歌劇団に参画した。やがて、佐々紅華との関係が深まりお伽歌劇、創作オペラに出演した。大正11年の《カルメン》では伍長モラレスの役を演じた。その後、二村は、大正後期からジャズ・ソングを歌うようになり、昭和に入ると、放送オペラにも出演した。外資系レコード会社の2大レーベルのビクターとコロムビアが電気吹込みレコードを企画・製作するようになると、両社は、二村定一のジャズ・ソングの魅力に眼をつけた。昭和3年、二村は明瞭な日本語で《青空》《アラビアの唄》を吹込み、また、浅草電気館のアトラクションにも出演し一世を風靡した。昭和4年、佐々紅華が作曲した和製ジャズ・ソング・《君恋し》、大阪モダンを情緒豊かに歌った《浪花小唄》がヒットし、浅草電気館のレヴューにも出演しその人気は絶頂を極めた。昭和5年夏、佐々紅華とともにコロムビア移籍する。昭和6年、藤山一郎が古賀メロディーの魅力を伝え一世を風靡すると、二村はレコード界ではあまり活躍が見られなくなった。その一方で、浅草でエノケンとコンビを組みレヴューで人気を誇るようになった。ジャズのフィーリングをいかしたレヴュー形式のオペレッタ−を志向した。だが、やがて、エノケンとの均衡が崩れると、二村の凋落が始まった。エノケンが映画・演劇とも東宝の専属になると、完全に二人の差は歴然とするようになった。その後、二村は再起をかけて雄飛を試みるがうまくいかなった。太平洋戦争末期、満州に渡った説があるが定かではない。戦後、零落した二村に手を差しのべたのがエノケンだった。舞台に復帰したが酒の飲み過ぎで美声は失われて入り、舞台をこなすのがやっとだった。昭和23年、公演中に倒れ48歳の生涯を終えたのである。詳細には
『私の青空 二村定一 ジャズ・スングと軽喜劇黄金時代』を参照。

 この二村に刺激され流行歌を歌うようになったが、東京音楽学校時代からバリトン歌手として外国人歌手と伍してもひけをとらぬ独唱ぶりをしめした藤山一郎(増永丈夫)だった。また、二村の全盛期が去った後は、ディック・ミネ中野忠晴らジャズシンガーが登場する。またエノケンのジャズ、川田義雄の浪曲ジャズなどのユニークな面も見られた。女性歌手では妖艶なソプラノで歌う淡谷のり子、二世歌手の川畑文子、ヘレン隅田 ベティ稲田が活躍した。昭和のモダン風景の音空間の主役となったジャズは、東京のカフェー、ダンスホールでも鳴り響いた。ジャズとダンスホールは密接な関係だった。フォックス・トロットのリズムが両者を繋いでいる。まさに「ジャズの響きで昭和モダンを踊ったのである。


昭和モダン・ジャズの王国
《ダンスホール》

 ダンスホールという空間、ジャズの狂騒、フォックス・トッロトのステップ、これらが昭和のジャズ・エイジの空間音だった。東京八重洲口の
「日米ダンスホール」は、昭和二年五月に日本郵船ビル五階(当時は日米信託ビル)にオープンした。フィリピン人によるアルカンタラ・ジャズ・バンドが出演した。人形町の「ユニオン」は、昭和三年に大阪のユニオン系のホールが朝日舞踏場を買収してダンスホールとなった。赤坂溜池の「フロリダ」は、数多い戦前のダンスホールのなかでもとりわけ豪華な設備を誇っていた。日本のダンスホールはこの「フロリダ」を抜きにしては語れないと言われている。そこには、俳優、音楽家、画家、ジャーナリストら当時の尖端をいく人間が溜まり、日本のジャズ・エイジの発展場となったのである。モダン都市東京のメッカ、フロリダは昭和四年八月に開場した。翌年、津田又太郎が支配人になってから彼の独創的アイディアと見識によって隆盛を極めた。例えば、バンド・ステージにも工夫が凝らされていた。オーケストラが、ホール真正面に移りフロリダのシンボルともいうべき大きなシャコ貝を型どった飾りをバックに演奏するようになった。そのような趣向は音響効果を上げるためであろう。フロリダでは、昭和五年、菊池滋弥菊池&ヒズ・カレッジアンスが昼のステージに出演した。生バンドを呼び物にしようとしたのである。これは、数ある東京のジャズバンドでは初めての試みだったのだ。菊池滋弥は、明治三十六年京橋の生まれ。慶応幼稚舎から慶応大学に進学してピアニスト、学生ジャズバンドのリーダーとして活躍した。彼のジャズとの出会いは大正八年に父徳武に随行してアメリカに赴いたことにはじまる。ワシントンに滞在した後、ニューヨーク、シカゴ、サンフランシスコなどを訪れ翌年帰国した。この渡米中に、オリジナル・ディキシーランド・ジャズバンドのレコードを買ったり、実際の演奏を劇場などで聴いてその魅力にすっかりとりつかれてしまったのである。大正十三年、ジャズの教則本を収集するために二度目の渡米をしてかなりの資料を持ち帰った。そして、慶応の同級生でジャズをかなり研究していた男爵益田太郎の子息たちと知り合い、ドラム、ピアノ、バンジョー、トランペットなどをそれぞれ習得していた克信、義信、智信、貞信ら兄弟と品川御殿山の益田邸に集まりジャズに取り組むようになった。大正十五年、サンフランシスコの花壇王の父をもつ堂本誉次が来日した。彼は、「カジ」という愛称で呼ばれ、トランペット、ピアノ、編曲に優れた才能をもち大変よい感性をもっていた。そして、堂本がジャズの指導をおこないバンドを結成へ向かうのである。大体メンバーも集まり要領がわかってくると演奏会の企画が持ち上がってくる。そこへ、政友会の代議士の高橋光威の息子高橋宣光が本格的なジャズバンドを結成して演奏活動をしようという計画をもちかけてきた。そして、慶応の校旗にちなんで、「レッド・アンド・ブルー・ストンパース・ジャズ・バンド」という名称のバンドを作った。昭和三年一月十六日、日本橋の三越劇場で演奏会を開いた。昭和三年初め、ハワイ生まれのアメリカ人、アーネスト・カアイが来日して、菊池たちのバンドと親しくなり彼らもカアイの指導をうけるようになった。カアイという男は大変器用な人で、あらゆる楽器をこなした。サックス、トランペット、ピアノ、ギター、ウクレレ、琴、三味線までこなしたことは驚きであった。昭和三年六月二十三日、青山の青年会館で菊池たちレッド・アンド・ブルー主催、アーネスト・カアイをゲストにジャズ演奏会が開かれた。当日は会館の二階が落ちやしないかと心配するほどの大入りだった。これに続いてこの種のジャズ・コンサートが催されたのである。菊池らのバンドはアーネスト・カアイのバンドでかなりの舞台を踏んでいたので、演奏経験は十分だった。それが「フロリダ」にいかされたのである。フロリダのステージ上部にはバンド名をアルファベットで書き込んだ幕を張り、中央にはピアノを置いた。そして、学生らしい陽気さと若さで、同ホールの夜に出演していたジョース・ハワイアン・セレネーダスよりも人気を博したのである。昭和五年の秋には、フロリダでは本場のバンド招聘が実現した。ウェイン・コールマン・バンドが「フロリダ」のステージに登場したのだ。昭和六年一月二十四日の夜、「フロリダ」では、このウェイン・コールマン・バンドとフィッシャー・バンドが競演した。フィシャー・バンドは豪華船ベルゲンランド号の専属楽団。コールマン・バンドがダンス・バンドに対して、フィッシャー・バンドは、ヴァイオリン、サックス二つ、トランペット、リズム隊三という七人編成のシカゴ・スタイルのジャズバンドであった。 軍配はフィッシャーに上がった。《タイガーラグ》のスペシャル・アレンジでテナーのアドリブソロ、随所にみられたトランペットの繊細なアドリブ、アクション入りの派手なドラムソロ、しかも、バンドたちがメガホンをもって「ホールド・ザ・タイガー」と絶叫。その間フィッシャーの曲芸もどきのヴァイオリン・ソロなどが大受けして勝敗が決したのだ 昭和のジャズ・エイジの発展場「フロリダ」は、外国にも紹介されるようになり、ジャズのリズムでまさにステップ、スッテプ、ダンス、ダンスで興奮の坩堝となっていたのである。 昭和七年八月六日未明、フロリダは焼失してしまった。しかし、津田氏のホール復興への熱意は凄まじいものがあり、驚異的スピードで新生「フロリダ」が秋に復活した。再び華やかなステージが展開したのである。 (文筆・菊池清麿)  

服部良一小伝


 服部良一 1907(明治40)年10月1日(大阪市)−1993・1・30 實踐商業(T・13) 瑞3(S・54) 国民栄誉賞(H・5) 《馬子唄》 (ヒコウキ/70604/6・9)

 明治四〇年一〇月一日、大阪・本庄の生まれ。彼もまたジャズの都・大阪道頓堀でその感性を磨いた。道頓堀のうなぎ料亭「出雲屋」が太左衛門橋南ぎわ、カフェー赤玉の真ん前にある「角屋」というレストランの支店で少年音楽隊を結成した。大正一二年九月一日、関東大震災のあった同じ日に入隊式が行われた。服部良一の音楽人生はそこから始まったのだ。大正14年5月に出雲屋少年音楽隊が解散(大阪プリンセス・バンドとして再スタート)すると、松竹座オーケストラに参加。同年六月に大阪放送局がラジオ放送を開始すると、すぐに局内には「大阪フィルハーモニック・オーケストラ」が生まれた。服部はそこでエマヌエル・メッテルと運命的な出会いをする。大正後期、ジャズの人気の出始め、その音楽の放送のために内職ジャズバンド(NSジャズ・バンド)が放送用に結成された。そこに服部良一ら楽士たちが集められ臨時編成のバンドが出演して演奏したのである。服部は昭和に入るとレコード会社で仕事をするようになる。昭和4年頃、コッカレコード(国家レコード製作所)というところでサクソフォンと編曲を担当した。そして、タイヘイ・レコードの専属となった。昭和八年八月二六日、服部良一はディック・ミネの助言もあって東京へと上京した。服部は菊地博がリーダーとなっていた人形町のダンスホール「ユニオン」のバンドにサクソフォン奏者として加わった。翌9年2月は東京進出をはかったニットーレコードの音楽監督に就任する。いよいよ、作曲家としても仕事も本格的になったのである。昭和11年2月、服部は、大手コロムビアレコードの専属作曲となった。入社第1回の作品が淡谷のり子が歌う《おしゃれ娘》はスイング風のスピード感溢れる新しいフィーリングが伝わってくる。服部良一は、やがて、淡谷のり子が歌う《別れのブルース》で一流の作曲家の仲間入りをはたす。大阪のジャズのサウンドで己の感性を育んだ服部良一はそのフィーリングを大衆音楽において見事に開花させたのである。服部良一は、ジャズを基本にブルース、ルンバ、タンゴなどを日本の流行歌に取り入れ日本のポップス歌謡の創始者としての功績がある。古賀政男が晩年において演歌の源流へとスタンスを代えたことに対して服部良一は己のスタンスを最後まで維持した。ジャズのもつバイタリティーを最後まで持っていた。しかも、4ビートはもちろんのこと8ビートでもとれる曲が多かった。服部良一の功績のまずひとつに和製ブルースを創始したことがある。そこには淡谷のり子との出会いがある。当時、淡谷のり子は、ソプラノのハイポジションで外国系のポピュラー曲を歌っていた。その淡谷にアルトの音域の《別れのブルース》を歌ってもらいブルースの情感を表現することに成功した。そして、翌年の《雨のブルース》の成功によって、日本のブルースが成立した。服部は、ブルースのみならず、つねに外国のポピュラー音楽のフィーリングを用いてそれぞれのジャンルで和製ポップスを創作した。軍国主義という制約された音楽環境において国際色豊かな音楽を創造したのである。昭和19年、上海に渡り、李香蘭を満州から呼び、黎錦光の《夜来香》をシンフォニック・ジャズにした《夜来香幻想曲》を創作し戦前最後の仕事にした。また、歌謡曲においては感傷的なブルースの傑作《湖畔の宿》、《小雨の丘》、雄大な中国の抒情を歌った《蘇州夜曲》、モダンな余韻を感じさせる《一杯のコーヒーから》など戦前のヒットソングを生み出した。戦後なると服部メロディーは一気に爆発した。ジャズの破壊力から豊かなロマンチシズムまで服部サウンドは放流した。戦前から温めていたブギのリズムを日本の流行歌に取り入れ開花させたのである。笠置シヅ子が歌った《東京ブギウギ》がその代表曲である。また、その一方では、戦後の息吹を伝え日本人が最も好む歌謡曲を創作している。それが藤山一郎・奈良光枝が歌った《青い山脈》である。これは8ビートにも刻めるリズムで作曲している。戦後の民主化と復興の息吹を伝え、若く明るい希望に満ちたこの歌は、服部良一の雄大とも言うべき大らかなロマンンチシズムとクラシックの格調を持つ藤山一郎の歌唱とが融合し日本の流行歌の傑作として永遠のメモリアルになっている。



戦後日本ポピュラー音楽史・変遷史


「占領軍の進駐とジャズの復活・空前のジャズブーム」

 日本のジャズの歴史は、アメリカ行きの東洋汽船の地洋丸に乗り込んだ5人の青年に始まる。船上のバンドの活躍は日本にジャズをもたらし、大正時代にはカフェー、ダンスホールで演奏された。 昭和に入り、電気吹込みの時代になり、外資系レコード会社が設立すると、レコード吹込みのためジャズバンドは活躍する。東京芸大出身のクラシックの正統派・藤山一郎、「10年にひとりのソプラノ」と賛辞を受けた淡谷のり子がポピュラーレコード界に登場する頃、ジャズバンドの水準もあがり、それ以後、南里文雄(トランペット)、谷口又士(トロンボーン)、田中和男(ドラムス)、山口豊三郎(ドラムス)渡辺良(ベース)、杉原泰蔵(ピアノ)ら優秀なプレイヤーも活躍した。作曲・編曲にも井田一郎、紙恭輔、服部良一らが活躍したが、だが、1940(昭和15)年10月31日、全国のダンスホールの閉鎖、1943(昭和18)年1月13日、ジャズなどの米英楽曲約1000種の演奏禁止によって、日本のジャズ演奏は終焉していた。だが、戦後になり、ジャズを中心とする軽音楽が甦ったのである。1945(昭和20)年9月9日、タンゴバンドで鳴らした桜井潔楽団が演奏。9月23日、『日米放送音楽会』に米軍軍楽隊233部隊が出演し、戦後初のジャズ放送が実施された。NHK・占領軍用放送ネットワーク「WVTR」(第二放送用・FENの前身)が9月23日から放送が開始された。米軍の独自のプログラム編成で絶え間なく音楽が放送されたのである。戦前の日本人ジャズ演奏家はそのような放送形態を太平洋を航海する「浅間丸」・「鎌倉丸」・「龍田丸」の中で聴いていた。だが、太平洋戦争の突入によって、アメリカジャズ界の情報が閉ざされてしまった。 
 日本のジャズ界は、1944(昭和19)年のビーバップの動きも知らず、戦後、アメリカジャズの楽譜が、進駐してきた各部隊のクラブ関係者によって持ち込まれ、その進展を知るのである。日本人ジャズメンたちは、これによってアメリカのジャズの息吹に大きな刺激を受けたといえる。1945(昭和20)年11月25日、「ニュー・パシフィック・バンド」(新太平洋楽団)が東京放送管弦楽団とともにジャズ演奏、12月2日夜8時30分から、「ニューパシフィック・アワー」にレギュラー出演した。テーマ曲はジョニー・マサーの《ドリーム》、松本伸のテナーサックスが目立った。そして、ジャズ音楽は、東京を中心に各地に設置された進駐軍キャンプや将校クラブでもさかに演奏されたのである。ジャズバンドも「渡辺弘とスター・ダスターズ」、「東松二郎とアズマニアンズ」、「南里文雄とホット・ペッパーズ」等のバンドが次々と活動し始めた。当時、占領軍の兵士たちは、ジャズも満足に聴いたことも無い者も多く、日本人のジャズ演奏によって本国で享受できなかったジャズ文化に酔いしれた。
 ジャズが響きだすと、戦前から外国のポピュラー音楽を歌っていた淡谷のり子、ディック・ミネ、灰田勝彦らは、進駐軍キャンプや高級将校クラブの慰問演奏で拍手喝采を浴びた。淡谷は戦争中、レコードに吹込んだ外国系のポピュラーソングが常に検閲にひっかり、悲哀を経験していた。戦後は、ジャズ、ブルース、シャンソンと思う存分歌えることができるようになったのである。ディック・ミネは、進駐軍のキャンプで彼本来のジャズ、ポピュラーソングを歌いまくり拍手の嵐だった。そのために、NHK『紅白音楽試合』に出演できなかった逸話がのこっている。灰田勝彦も戦中に敵性音楽のハワイアンを歌い、随分と軍部から睨まれた。ステージで歌っているところを発砲まで受けている。戦後の灰田勝彦はまるで水をえた魚のようであった。占領軍の進駐によって、この息吹が戦前から隆盛していた日本のジャズを復活させたのである。そして、戦前モダンの香りをもっていた歌謡曲も復活させたのである。
 1952(昭和27)4月28日、日米安全保障条約が発効すると、占領軍は駐留軍となった。米軍基地はそのまま残ったが、規模は縮小された。それまで、基地周りをしていた日本人のジャズ・バンドは、基地外で演奏するようになった。これを契機にジャズラッシュが始まったのである。アメリカのジャズメンたちも日本にどっと押し寄せた。ジャズラッシュに拍車がかかったのは当然である
昭和二七年四月、「ジーン・クルーパ・トリオ」の来日公演はゴージャスなダンスミュージック音楽のスウィングジャズによって形成された日本人のジャズ観を一新するかのような熱演だった。スウィング全盛時代のベニー・グッドマン楽団の名ドラマーで知られるジーン・クルーパを中心にテディ・ナポレオン(ピアノ)、チャリー・ヴェンテューラー(サックス)で編成した「ジーン・クルーパートリオ」は日本のジャズシーンを塗り替えるような嵐といえたのだ。そのブームのなかで江利チエミが歌う《テネシーワルツ》は人々に好感をもって迎えられた。江利チエミは幼いときから、米軍キャンプを巡っていた。黒人の魂を全身から発し、日本人の心に底流する浪花節の要素を結びつけたフィーリングを持っていたのだ。ジャズ感覚と日本調を融合させた感性が大衆に受けたのである。江利チエミは、1937(昭和12)年1月11日、東京・入谷の生まれ。チエミの父はクラリネット奏者、母は松竹楽劇団の出身の女優。チエミはそのような両親の環境の下で育った。1953(昭和28)年には雪村いづみが《想いで出のワルツ》を歌いデビューした。この歌は、チエミがハワイ公演のとき、アメリカのコーラスグループ・「デルタ・リズム・ボーイズ」のリーダー、カール・ジョーンズが彼女に薦めた歌だった。チエミにいづみに美空ひばりを加えて「三人娘」時代を形成する。演歌・ひばり、ジャズと邦楽の融合・チエミ、ミュージカル唱法・いづみそれぞれの個性が戦後の歌謡界を彩ったのである。
  戦後の空前のジャズブームのなか、1951、2年頃は、歌謡曲の低成長時代といわれているが、名曲が多い。ビクターでは戦前からのヒットメイカー・佐々木俊一がつぎつぎとヒットを放ったのである。 灰田勝彦甘いヨーデルを存分にいかした《アルプスの牧場》、野球人気を煽った《野球小僧》。灰田勝彦人気が蘇った。また、テイチクからビクターに移籍した淡谷のり子が歌った《白樺の小径》もヒットした。そして、佐々木俊一メロディーの傑作《高原の駅よさようなら》は小畑実のビクター復帰を記念するヒッとなったのである。テイチクでは、「女バタやん」の異名をとる独特のバイブレーションで歌う菅原都々子が歌う《連絡線の歌》がヒットした。コロムビアでは、藤山一郎が気品と品格のある流麗なテナーで《ニコライの鐘》、《丘は花ざかり》を歌いあげた。ラジオ歌謡では伊藤久男の抒情歌・《山のけむり》が好評だった。 安保体制始動のさなか、空前のジャズブームによって、ひばり、チエミ、いづみの三人娘が登場し、歌謡曲は新たな展開を見たが、藤山一郎、灰田勝彦、伊藤久男、淡谷のり子らが歌唱した昭和20年代の後半の名曲が多くの人々に感銘をあたえたのである。戦後日本歌謡曲史、昭和歌謡史に燦然と輝く珠玉の名曲・名唱といえよう。


 この内容に関する著作権は菊池清麿(近代日本流行歌史研究)にあり無断転載を禁じます。
Copyright(C)2003 Kikuchi Kiyomaro.
all rights reserved
.

 

トップページへもどる