「夜明け前」の木曽路
【 小説「夜明け前」(島崎 藤村)の舞台となった幕末から明治初期の木曽路 】
【 幕末の頃の木曽路 】
(9/10)

いかんせん、百姓としては、御通行の多い季節がちょうど農業のいそがしいころにあたる。 彼らは従順で、よく忍耐した。中にはそれでも困窮のあまり、山抜け、谷くずれ、出水なぞの口実にかこつけて、助郷不参の手段を執るような村々をさえ生じて来た。 そこへ和宮様の御通行があるという。 本来なら、これは東海道経由であるべきところだが、それが模様替えになって、木曽街道の方を選ぶことになった。
東海道筋はすこぶる物騒で、志士浪人がみちにご東下を阻止するというような計画があると伝えられるからで。 この際、奉行としては道中宿々と助郷加宿とに厳達し、どんな無理をしても人馬を調達させ、供奉ぐぶの面々が西から続々殺到する日に備えねばならない。 徳川政府の威信の実際にためさるような日が、とうとうやって来た。
十月の二十日は宮様が御東下の途にかれるという日である。・・・
宮様御出発の日には、帝にもお忍びでかつらの御所を出て、宮様の御旅装を御覧になったという。・・・  

「吉左衛門さんは御存じだが、わたしたちが覚えてから大きな御通行というものは、この街道に三度ありましたよ。 一度は水戸の姫君さまのお輿入れの時。一度は尾州の先の殿様が江戸でお亡くなりになって、その御遺骸がこの街道を通った時。 今一度は例の黒船騒ぎで、交易を許すか許さないかの大評定だいひょうじょうで、尾州の殿様(徳川慶勝よしかつ)の御出府の時。・・・
  あれほどの御通行でも和宮さまの場合とはとうてい比べものにならない。 今度のような大きな御通行は、わたしは古老の話にも聞いたことがない。」・・・

贄川宿
贄川宿に向かう街道
御通行後の二日目は、和宮様の御一行も福島ふくしま藪原やぶはら を過ぎ、 鳥居峠とりいとうげ を越え、 奈良井ならい宿お小休み、 贄川宿にえがわじゅく 御昼食の日取りである。 半蔵と伊之助の二人は連れだって、その日三留野みどの お継ぎ所の方から馬籠まごめへ引き取って来た。 伊之助は伊那いな助郷の担当役、半蔵も父の名代とし て、いろいろとあと始末をして来た。

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