「夜明け前」の木曽路
【 小説「夜明け前」(島崎 藤村)の舞台となった幕末から明治初期の木曽路 】
【 幕末の頃の木曽路 】
(2/10)
本陣の当主吉左衛門と、年寄役の金兵衛とはこの村に生まれた。吉左衛門は青山の家をつぎ、金兵衛は、小竹の家をついだ。 この人たちが宿役人として、駅路一切の世話に慣れたころは、二人ともすでに五十の坂を越していた。 吉左衛門五十五歳、金兵衛の方は五十七歳にもなった。 これは当時としてめずらしいことでもない。吉左衛門の父にあたる先代の半六などは六十六歳まで宿役人を勤めた。 それから家督を譲って、ようやく隠居したくらいの人だ。吉左衛門にはすでに半蔵という跡継ぎがある。 しかし家督を譲って隠居しようなぞとは考えていない。 福島の役所からでもその沙汰さたがあって、いよいよ引退の時期が来るまでは、 まだまだ勤められるだけ勤めようとしている。 金兵衛とても、この人に負けてはいなかった。

山里へは春の来ることもおそい。毎年旧暦の三月に、
中津川
中津川
恵那えな山脈の雪も溶けはじめるころになると、にわかに人の往来も多い。 中津川なかつがわ の商人は奥筋おくすじ三留野みどの上松あげまつ福島ふくしまから奈良井ならい辺までをさす)への諸勘定を兼ねて、ぽつぽつ隣の国から登って来る。 伊那いなの谷の方からは飯田の在のものが祭礼の衣裳なぞを借りにやって来る。 太神楽だいかぐらもはいり込む。 伊勢へ、津島へ、金毘羅へ、あるいは善光寺への参詣もそのころから始まって、 それらの団体をつくって通る旅人の群れの動きがこの街道に活気をそそぎ入れる。

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五十余年の生涯の中で、この吉左衛門らが記憶に残る大通行と言えば、尾張藩主の遺骸がこの街道を通った時のことにとどめをさす。 藩主は江戸で亡くなって、その領地にあたる木曾谷輿こしで運ばれて行った。 
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木曾谷中から寄せた七百三十人の人足だけでは、まだそれでも手が足りなくて、 千人あまりもの伊那助郷すけごうが出たのもあの時だ。 諸方から集めた馬の数は二百二十匹にも上った。吉左衛門の家は村でも一番大きい本陣のことだから言うまでもないが、 金兵衛の住居にすら二人の御用人のほかに上下合わせて八十人の人数を泊め、馬も二匹引き受けた。 木曾は谷の中が狭くて、 田畑もすくない。限りのある米でこの多人数の通行をどうすることもできない。 伊那の谷からの通路にあたる権兵衛ごんべえ街道の方には、 馬の振る鈴音に調子を合わせるような馬子唄まごうたが起こって、 米をつけた馬匹ばひつの群れがこの木曾街道に続くのも、そういう時だ。
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