「夜明け前」の木曽路 【 小説「夜明け前」(島崎 藤村)の舞台となった幕末から明治初期の木曽路 】 |
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【 幕末の頃の木曽路 】 | |||||||||||||||||||||||||
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第三章
木曾十一宿はおおよそ三つに分けられて、馬籠、
妻籠、三留野、
二
・・・・・・・・・ 秋も過ぎ去りつつあった。色づいた霜葉は谷に満ちていた。季節が季節なら、 木曾川の水流を利用して山から伐り出した材木を流しているさかんな活動のさまがその街道から望まれる。 小谷狩にはややおそく、大川狩にはまだ早かった。 河原には堰を造る日傭の群れの影もない。木鼻、 木尻の作業もまだ始まっていない。諸役人が沿岸の警戒に出て、どうかすると、鉄砲まで持ち出して、 盗木流材を取り締まろうとするような時でもない。 半蔵らの踏んで行く道はもはや幾たびか時雨の通り過ぎたあとだった。 気の置けないものばかりの旅で、三人はときどき路傍の草の上に笠を敷いた。 小松の影を落としている川の中洲を前にして休んだ。対岸には山が迫って、檜木、椹の直立した森林がその断層を覆うている。 とがった三角を並べたように重なり合った木と木の梢の感じも深い。 奥筋の方から渦巻き流れて来る木曾川の水は青緑の色に光って、 乾いたりぬれたりしている無数の白い花崗石の間におどっていた。 その年は安政の大地震後初めての豊作と言われ、馬籠の峠の上のような土地ですら一部落で百五十俵からの増収があった。 木曾も妻籠から先は、それらの自然の恵みを受くべき田畠とてもすくない。 中三宿となると、次第に谷の地勢も狭まって、 わずかの河岸の傾斜、わずかの崖の上の土地でも、それを耕地にあててある。 ・・・・・・・・・ この谷の中だ。木曾地方の人たちが山や林を力にしているのに不思議はない。 当時の木曾山一帯を支配するものは尾張藩で、 巣山、留山、明山の区域を設け、そのうち明山のみは自由林であっても、 許可なしに村民が五木を伐採することは禁じられてあった。言って見れば、檜木、椹、明檜、 高野槇、ねずこの五種類が尾張藩の厳重な保護のもとにあったのだ。 半蔵らは、 名古屋から出張している諸役人の心が絶えずこの森林地帯に働いていることを知っていた。 一石栃にある白木の番所 から、 上松の陣屋の辺へかけて、諸役人の目の光らない日は一日もないことを知っていた。 しかし、巣山、留山とは言っても、絶対に村民の立ち入ることを許されない区域は極少部分に限られていた。自由林は木曾山の大部分を占めていた。 村民は五木の厳禁を犯さないかぎり、意のままに明山を跋渉して、 雑木を伐採したり薪炭の材料を集めたりすることができた。檜木笠、めんぱ(木製割籠)、 お六櫛、諸種の塗り物――村民がこの森林に仰いでいる生活の資本もかなり多い。 耕地も少なく、農業も難渋で、そうかと言って塗り物渡世の材料も手に入れがたいところでは、 「御免の檜物」と称えて、毎年千数百駄ずつの檜木を申し受けている村もある。 あるいはまた、そういう木材で受け取らない村々では、慶長年度の昔から谷中一般人民に許された白木六千駄のかわりに、 それを「御切替え」と称えて、代金で尾張藩から分配されて来た。 これらは皆、歴史的に縁故の深い尾張藩が木曾山保護の精神にもとづく。
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