「夜明け前」の木曽路
【 小説「夜明け前」(島崎 藤村)の舞台となった幕末から明治初期の木曽路 】
【 幕末の頃の木曽路 】
(3/10)
山の中の深さを思わせるようなものが、この村の周囲には数知れずあった。林には鹿も住んでいた。 あの用心深い獣は村の東南を流れる細い下坂川おりさかがわについて、よくそこへ水を飲みに降りて来た。 古い歴史のある 御坂越みさかごえ 【注】をも、 ここから恵那えな山脈の方に望むことができる。 大宝たいほうの昔に初めて開かれた木曾路とは、実はその御坂を越えたものであるという。 その御坂越から幾つかの谷を隔てた恵那山のすその方には、霧が原の高原もひらけていて、 そこにはまた古代の牧場の跡が遠くかすかに光っている。
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【注】 御坂は古くからの名称であったが、明治になって馬篭と隣村の湯舟沢が合併され、
御坂に因んで新しく「神坂村」と名付けられ、御坂峠も「神坂峠」となった。



檜木ひのきさわら明檜あすひ高野槇こうやまき、 ねずこ―これを木曾では五木ごぼくという。そういう樹木の生長する森林の方はことに山も深い。 この地方には巣山すやま留山とめやま明山あきやまの区別があって、 巣山と留山とは絶対に村民の立ち入ることを許されない森林地帯であり、明山のみが自由林とされていた。 その明山でも、五木ばかりは許可なしに伐採することを禁じられていた。これは森林保護の精神より出たことは明らかで、 木曾山を管理する尾張藩がそれほどこの地方から生まれて来る良い材木を重くていたのである。
上松
上松
取り締まりはやかましい。すこしの怠りでもあると、木曾谷中三十三か村の庄屋は 上松あげまつ の陣屋へ呼び出される。 吉左衛門の家は代々本陣庄屋問屋の三役を兼ねたから、そのたびに庄屋として、背伐せぎりの厳禁を犯した村民のため言い開きをしなければならなかった。 どうして檜木ひのき一本でもばかにならない。陣屋の役人の目には、どうかすると人間の生命よりも重かった。

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