「夜明け前」の木曽路 【 小説「夜明け前」(島崎 藤村)の舞台となった幕末から明治初期の木曽路 】 |
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【 幕末の頃の木曽路 】 | |||||||||||||||||||||||
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第六章
和宮様御降嫁のことがひとたび知れ渡ると、沿道の人民の間には非常な感動をよび起こした。
従来、皇室と将軍家との間に結婚の沙汰のあったのは、前例のないことでもないが、種々な事情から成り立たなかった。
それの実現されるようになったのは全く和宮様を初めとするという。おそらくこれは盛典としても未曾有、
京都から江戸への御通行としても未曾有のことであろうと言わるる。今度の御道筋にあたる宿々村々のものがこの御通行を拝しうるというは非常な光栄に相違なかった。
木曾谷、下四宿の宿役人としては、しかしただそれだけでは済まされなかった。
彼らは一度は恐縮し、一度は当惑した。多年の経験が教えるように、この街道の輸送に役立つ御伝馬には限りがある。
木曾谷中の人足を寄せ集めたところで、その数はおおよそ知れたものである。
それにはどうしても伊那地方の村民を動かして、
多数な人馬を用意し、この未曾有の大通行に備えなければならない。一 木曾街道六十九次の宿場はもはや嘉永年度の宿場ではなかった。 年老いた吉左衛門や金兵衛がいつまでも忘れかねているような天保年度のそれではもとよりなかった。 いつまで伊那の百姓が道中奉行の言うなりになって、これほど大がかりな人馬の徴集に応ずるかどうかはすこぶる疑問であった。 ・・・・・・・・・ 天龍川のほとりに住む百姓三十一か村、後には六十五か村のものは、こんなふうにして彼らの鍬を捨て、 彼らの田園を離れ、伊那から木曾への通路にあたる風越山の山道を越して、 お触れ当てあるごとにこの労役に参加して来た。 旅行も困難な時代であるとは言いながら、参覲交代の諸大名、公用を帯びた御番衆方なぞの当時の通行が、 いかに大げさのものであったかを忘れてはならない。
もし天龍川の出水なぞで川西の村々にさしつかえの生じた時は、総助郷で出動するという堅い取りきめであった。 徳川政府がこの伝馬制度を重くみた証拠には、直接にそれを道中奉行所の管理の下に置いたのでもわかる。 奉行は各助郷に証人を兼ねるものを出勤させ、また、人馬の公用を保証するためには権威のある印鑑を造って、それを道中宿々にも送り、 紛らわしいものもあらば押え置いて早速注進せよというほどに苦心した。 ・・・・・・・・・
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