「夜明け前」の木曽路
【 小説「夜明け前」(島崎 藤村)の舞台となった幕末から明治初期の木曽路 】
【 幕末の頃の木曽路 】
(10/10)
第七章
妻籠の宿はずれのところまでついて来た寿平次とも別れて、さらに半蔵らは奥筋へと街道を進んだ。 翌日は早く須原すはらをたち、道を急いで、昼ごろにはかけはしまで行った。 雪解ゆきげの水をあつめた木曾川は、 渦を巻いて、無数の岩石の間に流れて来ている。休むにいい茶屋もある。うぐいすも鳴く。 王滝口への山道はその対岸にあった。 御嶽登山をこころざすものはその道を取っても、越立こしだち下条しもじょう黒田なぞの山村を経て、常磐ときわの渡しの付近に達することができた。 間もなく半蔵らは街道を離れて、山間やまあいに深い林をつくる谷に分け入った。
ひのきけやきにまじる雑木も芽吹きの時で、さわやかな緑が行く先によみがえっていた。 王滝川はこの谷間を流れる木曾川の支流である。 登り一里という沢渡峠さわどとうげまで行くと、遙拝所ようはいじょがその上にあって、 麻利支天まりしてんから奥の院までの御嶽全山が遠く高くかたちをあらわしていた。・・・ 

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そろそろ半蔵には馬籠の家の方のことが気にかかって来た。一月ひとつきからして陽気の遅れた王滝とも違い、 彼が御嶽の話を持って父吉左衛門をよろこばしうる日は、あの木曾路の西の端はもはや若葉の世界であろうかと思いやった。
将軍上洛中の京都へと飛び込んで行った友人香蔵からの便りは、どんな報告をもたらして、そこに自分を待つだろうかとも思いやった。 万事不安のうちに、むなしく春の行くことも惜しまれた。
「そうだ、われわれはどこまでも下から行こう。庄屋には庄屋の道があろう。」
と彼は思い直した。

水垢離みずごりと、極度の節食と、時には滝にまで打たれに行った山籠やまごもりの新しい経験をもって、 もう一度彼は馬籠の駅長としての勤めに当たろうとした。 御嶽のすそを下ろうとして、半蔵が周囲を見回した時は、 黒船のもたらす影響はこの辺鄙へんぴ木曾谷の中にまで深刻に入り込んで来ていた。
ヨーロッパの新しい刺激を受けるたびに、今まで眠っていたものは目をさまし、一切がその価値を転倒し始めていた。急激に時世遅れになって行く古い武器がある。 眼前についえて行くふるくからの制度がある。下民げみん百姓ひゃくしょうは言うに及ばず、 上御一人かみごいちにんですら、この驚くべき分解の作用をよそに、平静に暮らさるるとは思われないようになって来た。 中世以来の異国のからもまだ脱ぎ切らないうちに、今また新しい黒船と戦わねばならない。 半蔵は『静の岩屋』の中にのこった先師の言葉を繰り返して、測りがたい神の心をおそれた。

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(「夜明け前」第一部より抜粋)

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