「夜明け前」の木曽路
【 小説「夜明け前」(島崎 藤村)の舞台となった幕末から明治初期の木曽路 】
【 日本の幹線鉄道計画の本命であった明治初期の木曽路 】
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第二部下
第十三章
四年余り過ぎた。東京から東山道経由で木曽を西へ下って来て、 馬籠の旅籠屋三浦屋の前で馬を停めた英国人がある。 夫人同伴で、食料から簡単な寝具食器の類まで携えて来ている。一人の通弁つうべんと、 そこへ来て大きなトランクの荷をおろす供の料理人をも連れている。 この英国人は明治六年に渡来したグレゴリイ・ホルサムというもので、鉄道建築士として日本政府に雇われ、 前の建築師長エングランドの後をけて当時新橋横浜間の鉄道を主管する人である。

明治の七年から十年あたりへかけてはこの国も多事で、佐賀の変に、征台せいたいえきに、 西南戦争せいなんせんそうに、政府の支出もおびただしく、 鉄道建築のごときはなかなか最初の意気込み通りに進行しなかった。


東京と京都の間をつなぐ幹線の計画すら、 東海道 を採るべきか、 鉄道計画 または 東山道 を択ぶべきかに就いても、政府の方針はまだ定まらなかった時である。
様々な事情に余儀よぎなくされて、各地の測量も休止したままになっているところすらある。
当時の鉄道と言えば、鉄道として早くから完成せられた東京横浜間を除いては、神戸京都間、 それに前年ようやく起工のちょに就いた京都大津間を数えるに過ぎなかった。

ホルサムはこの閑散な時を利用し、しばらくの休暇をい、横浜方面の鉄道管理を分担する副役に自分の代理を頼んで置いて、 西の神戸京都間を主管する同国人の建築師長を訪ねるために、内地を旅する機会をとらえたのであった。

木曽路は明治十二年の初夏を迎えた頃で、ホルサムのような内地のたびに慣れないものに取っても快い季節であった。


ただこの古い街道筋を通過した西洋人もこれまでにごくまれであったために、 異国の風俗は兎角とかく山家やまがの人達の眼をひきやすくて、 その点にかけては旅のわずらいとなることも多かった。 これほど万国交際の時勢になっても、木曾あたりにはまだ婦人同伴の西洋人というものをはじめて見るという人もある。
それ偉人いじんの夫婦が来たと言って、ぞろぞろいて来る村の子供等はホルサムが行く先にあった。 この彼が馬籠の旅籠屋の前で馬からおりて、ここは木曽路の西のはずれに当たると聞き、 信濃と美濃の国境にも近いと聞き、 眺めをほしいままにするために双眼鏡なぞを取り出して、恵那山の裾野の方にひらけた高原を望もうとした時は、 顔をのぞききに来るもの、噂し合うもの、異国の風俗をめずらしがるもの、 周囲は眼をまるくした大人や子供でとりまかれてしまった。あまりのわずらわしさに、 彼は街道風な出格子でごうしの二階の見える旅籠屋の入口をさして逃げ込んだくらいだ。



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