「夜明け前」の木曽路
【 小説「夜明け前」(島崎 藤村)の舞台となった幕末から明治初期の木曽路 】
【 日本の幹線鉄道計画の本命であった明治初期の木曽路 】
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木曽路に入って見たホルサムは到るところの谷の美しさに驚き、 又、あのボイルがいかに冷静な意志と組織的な頭脳とをもってこの大きな森林地帯をよく観察したかをも知った。 ボイルの書き残したものによると、奈良井薮原の間に存在する鳥居峠一帯の山脈は 日本の西北ならびに東南の両海浜に流出する流水を分界ぶんかいするものだと言ってある。
又この近傍に於いて地質の急に変革したところもある、すなわちその北方犀川さいがわ筋の地方は おもに破砕した翠増岩石すいぞうがんせきから成り立っていて、 そしてその南方木曽川の谷は数マイルの間おもに大口火性岩かせいがんの谷側に連なるのを見るし、 又、河底は一面に大きなかたまりの丸石でおおわれていると言ってある。


木曽川薮原辺では唯の小さな流れであるが、 木曽福島の近くに至って御嶽山から流れ出るいちじるしい水流とその他の交流とを合併して、 急に水量を増し、東山道太田駅からおよそ九マイルを隔てた上流にある錦織にしごりに至って、 はじめて海浜往復の舟路を開くと言ってある。 御嶽山より流れ出る川(王滝川)に於いては、 冬の季節に当って数多あまたの材木を伐り出す作業というものがある、 それはおもにひのき、杉、つが、及び松の種類であるが、それらの材木を河中に投げ入 れ、それから木曽川の岩石の尖り立った河底を洪水の勢力によって押し下し、これを錦織村に於いて集合する、 そこでいかだに組んで、それから尾州湾びしゅうわんに送り出すとも言ってある。

ボイルの観察はそれだけにとどまらない。この川の上流に於いては槻材もまた許多あまたに産出するが、 それが貴重であって水運の便もきかず、また陸送するにはその費用の莫大なために、つてこれを輸出することがないと言って、 もし東山道幹線の計画が実現されるなら、この山国開発の将来には驚くべきものがあろうことを暗示してある。

馬籠まで来て、ホルサムはこれらのことを胸にまとめて見た。 隣村の妻籠からこの馬籠峠あたりはボイルが設計の内には入っていない。 それは山丘さんきゅうの多い地勢であるために、 三留野駅から木曽川の対岸に鉄道線を移すがいいとのボイルの意見によるものであった。 それにしてもこの計画は大きい。内部地方の開発をめがけ、都会と海浜との往復を便宜べんぎならしめるの主意で、 殊更ことさら国内一般の利益を量ろうとするところから来ている。いずれは鉄道線通過のはじめに有り勝ちな、頑固な反対説と、 自然その築造を妨げようとする手合てあいの輩出することをも覚悟せねばならなかった。
山家の旅籠屋らしい三浦屋の一室で、 ホルサムはそんなことを考えて、来るべき交通の一大変革がどんな盛衰せいすいをこの美しい谷々に持ち来すであろうかと想像した。


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