「夜明け前」の木曽路 【 小説「夜明け前」(島崎 藤村)の舞台となった幕末から明治初期の木曽路 】 |
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【 日本の幹線鉄道計画の本命であった明治初期の木曽路 】 | |||||||||||
(5/5) 二
翌朝ホルサムの一行は三浦屋を立って、西の美濃路をさして視察に向って行った。
この旧い街道筋と運命を共にする土地の人達はまだ何も知らない。まして、開国の結果がここまで来たとは知りようもない。
あの宿駕籠二十五挺、山駕籠五挺、
駕籠桐油二十五枚、馬桐油二十五枚、駕籠蒲団小五十枚、
中二十枚、提灯十張と言ったは最早宿場全盛の昔のことで、
伝馬所にかわる中牛馬会社の事業も過渡期の現象たる
にとどまり、将来この東山道を変えるものが各自の生活にまで浸って来ようとは猶々知りようもない。伏見屋の伊之助は自宅の方に病んでいた。彼は、馬籠泊りで通り過ぎて行った英国人の噂を聞きながら、 二十余年の街道生活を床の上に思い出すような人であった。馬籠の年寄役、兼問屋後見として、 彼が街道の世話をしたのも一昔以前のことになった。彼の知っている狭い範囲から言っても、 嘉永年代以来、黒船の到着は海岸防備の必要となり、海岸防備の必要は徳川幕府及び諸藩の経費節約となり、 その経費節約は参勤制度の廃止となり、参勤制度の廃止はまたこれまですでに東山道を変えてしまった。 最早明治のはじめをも御一新とは呼ばないで、多くのものがそれを明治維新と呼ぶようになった。 ひとり馬籠峠の上にかぎらず、この街道筋に働いた人達のことに想い至ると、彼伊之助には心驚かれることばかりであった。 事実、町人と百姓とを兼ねたような街道人の心理は他から想像さるるほど単純なものではない。 長い武家の奉公を忍び、あごで使われる器械のような生活に屈伏して来たほどのものは、 一人として新時代の楽しかれと願わぬはなかろう。 宿場の廃止、本陣の廃止、問屋の廃止、御伝馬の廃止、宿人足の廃止、 それから七里飛脚の廃止の後に於いて実際彼等が経験するものは果たして何であったろうか。 激しい神経衰弱にかかるものがある。強度に精神の沮喪するものがある。 種々な病を煩うものがある。 突然の死に襲われるものがある。驚かれることばかりであった。 これはそもそも、長い街道生活の結果か。 内には崩れ行く封建制度があり、外には東漸する欧羅巴人の勢力があり、 斯くのごとき社会の大変態は、 開闢以来いまだ曾つてないほどだと言わるるほどの急激な渦の中にあった証拠なのか。 張り詰めた神経と、肉身との過労によるのか。いずれとも、彼には言って見ることが出来ない。 過去を振り返ると、まるで夢のような気がするとは、同じ馬籠の宿役人仲間の一人が彼に話したことだ。 彼は、その茫然自失したような人の言葉の意味を聞き流せなかったことを覚えている。 ・・・・・・・・
(「夜明け前」第二部下より抜粋)
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