「夜明け前」の木曽路 【 小説「夜明け前」(島崎 藤村)の舞台となった幕末から明治初期の木曽路 】 |
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【 日本の幹線鉄道計画の本命であった明治初期の木曽路 】 | |||||||||||
(2/5) ホルサムが思い立って来た内地の旅は、ただの観光のためばかりではなかった。彼が日本に渡来した時は、 すでに先着の同国人ビィカアス・ボイルがあって、建築師首長として日本政府の依頼をうけ、 この国鉄道の木曽計画を立てたことを知った。 そのボイルが二回にも亙って東山道を踏査したのは、 明治も七年五月と八年九月との早い頃であった。 もともとこの国の鉄道敷設を勧誘したのは極東をめがけて来た欧羅巴人仲間で、 彼等がそこに眼をつけたのも早く開国以前に当る。江戸横浜間の鉄道建築を請願し来るもの、 鉄道敷設の免許権を得ようとするもの、測量方や建築方の採用を求めたり材料器具の売込みに応じようとしたりするもの、 一旦幕府時代に免許した敷設の権利を新政府に於いて取り消すとは何事ぞと抗議し来るもの、 これらの外国人の続出はいかに彼等自身が互に激しい競争者であったかを語っている。そのうちに英国公使バアクスのような人があって、 明治二年の東北及び九州地方の飢饉の例を引き、これを救うためにも鉄道敷設の急務であることを陳べたところから、 政府もその勧告に力を得て鉄道起業の議を決したのであった。 たまたまわが政府のため鉄道に要する資金を提供しようという英国の有力者なぞがここへあらわれて来て、いよいよこの機運を押し進めた。 英国の鉄道建築師等が相前後してこの国に渡来するようになったのも不思議ではない。 当時、この国では始めて二隻の新艦を製し、清輝、筑波と名づけ、 明治十二年の春にその処女航海を試みて大変な評判を取った頃である。 なにしろ、大洋の航海術を伝習してからまだ二十年も出ないのに、 自国人の手をもってこれを運用し、日本人の未だ曾つて知らなかった地方を訪れ、これまで日本人を見たこともない者の眼にこれを示し得たと言って、 この国のものはいずれも大いに意を強くしたほどの時である。海の方面すらこの通りだ。 まだ創業の際にある鉄道の計画なぞは一切の技術を欧羅巴から習得しなければならなかった。 幸いこの国に傭聘せられて来た最初の鉄道技術者にはエドモンド・モレルのような英国人があって、 この人は組織の才をもつばかりでなく、言うことも時勢に適し、 日本は将来欧羅巴人の手を仮りないで事を執る準備がなければならない、 それには教導局を置き俊秀な少年を養い百般の建築製造に要する技術者を造るに努めねばならないと言うような、 遠い先のことまでも考える意見の持ち主であったという。
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