世田谷区喜多見

氷川神社

四季の祭りと行事

門松はなぜ立てるのですか

新年を祝って、家の戸口・門前などに立てる「門松」とは、正月の歳神(としがみ)さまをお招きするための目印であり、また、神さまがお降りになったときに宿られる場所(依代(よりしろ))として設けられたものです。松とは限らず杉・椎(しい)・榊(さかき)などもあり、のちに松に竹を添えるようになり、それらのことから門松と呼ばれるようになりました。
なお、門松や注連飾り(しめかざり)などの正月飾りを取り除く日については、正月7日または、15日に定めている地方が多く、正月をひと区切りする意味で、元日からこの間までを「松の内(うち)」といいます。また、神棚・門松は、大晦日に飾りつける一夜飾り・一夜松を忌みました。

鏡餅について教えてください

鏡餅は、豊作をもたらし五穀豊穣を守る、年神(としがみ)さまへのお供えです。そもそも餅というのは、米から作られるもので、神さまのお恵みによって授けられた賜物(たまもの)といえるでしょう。これを年神さまに供えることにより、感謝の気持ちを表すのです。まさに餅は、正月には不可欠なものといえます。
鏡餅の語源については、その字が示すように、餅の形が鏡に似ているからといわれていますが諸説あります。

お年玉の「年玉」とはどういう意味ですか

日本では古くから、新年のお祝いとして、年の始めに贈り物をし合う習慣があり、すでに室町時代には盛んに行われていたようです。
「年玉」には、年神様が配るもの・元旦に祝い善についた餅を、子供たちがもらう丸餅等、地方によりいろいろな意味がありますが、共通する事は、年頭に神様から賜る餅です。つまり、年玉とは「年の賜物(たまもの)」という意味なのです。

鏡開(かがみびら)きは昔から1月11日に行われてきたのですか

「鏡開き」とは、正月に神さまへ供えた鏡餅(かがみもち)を、1月11日に下げて食べる祝儀をいいます。
鏡餅は刃物で切らずに、手や槌(つち)で割って食べるのがしきたりですが、刃物を使わない理由としては、餅が固いことと「切る」という言葉を忌むためです。ですから鏡開きというように、「開く」という縁起のよい言葉を使ったのです。
もともと鏡開きは、正月20日に「二十日正月」と称して、正月祝いの終わりの日として行われていましたが、徳川三代将軍家光の忌日が20日であったため、幕府が蔵開き(正月の年中行事、新年の仕事始めの儀)の日であった11日に変更し、それが現在に至っているといわれています。
鏡開きの日には、割った餅を汁粉(しるこ)や雑煮(ぞうに)に入れて食べますが、そのように神さまの御霊(みたま)の宿った餅を食べることで、神さまのご利益をいただくわけです。

左義長(さぎちょう)(三毬杖)は何をする行事ですか

平安時代の宮中では、清涼殿(せいりょうでん)の東庭で青竹を束ねて立て毬杖(ぎちょう)三個を結び、その上に扇子(せんす)や短冊(たんざく)などを添え、陰陽師(おんみょうじ)が謡(うた)いはやしながらこれを焼く「左義長」という行事がありました。今日では正月15日前後に行われ、民間行事として正月の松飾りや注連縄(しめなわ)を集めて焼く火祭りの行事です。ほぼ全国的にみられますが、地方によって、どんど焼、さいとやき、三九郎焼(さんくろうやき)、ほちょじ、ほっけんぎょうなどの名称で行われています。
神社では神事として、旧年お守りいただいたお神札(おふだ)に感謝して、古神札の焼納も併せて行われますが、この火にあたると若返るとか、餅を焼いて食べると病気をしないとか、書初(かきぞめ)をかざしてそれが高く舞い上がると書が上手になるなどともいわれています。
一年の始めにあたり、穢(けがれ)を祓(はら)い清めて、暖かい春の到来とその年の豊かな収穫を祈る行事でもあるという左義長の、その語源には鞠杖(ぎちょう)(鞠(まり)を打つ長柄(ながえ)の槌)に由来するとする説や、鳥追い行事との関連で鷺鳥(さぎちょう)の意味だとする説などがあります。

雛祭りの本来の意味について

雛祭りは、「上巳(じょうし)の節句」ともいい、かつては節句を節供とも書き、五節句の一つです。
上巳とは、旧暦3月の「上旬の巳の日」のことであり、中国では、祓い、招魂の行事が行われていました。これが日本に伝来して、日本の習俗と混じり合い、曲水の宴(曲がりくねった水の上に杯を浮かべ、詩歌を謡じ、お酒を飲む)、雛祭へと発展したのです。
元来は紙などで作った人形で身体を撫で、息を吹きかけたりして、その人形に罪穢を移し、海や川に流すという祓いの行事でした。この人形が、江戸時代頃より、いつしか王朝風の美しい雛人形へと変化し、人々に愛玩され鑑賞されるようになりましたが、それと共に祓いの習俗は後退していきました。しかし、現在でも鳥取県地方には、そのような雛祭りの原型が「流し雛」という形で残っています。

端午の節供

5月5日の「子供の日」には、男の子の健やかな成長を祈り、お祝いをします。
端午(たんご)の「端」は初め、「午」は十二支の午のことであり、また午が五と同音であるため、古くは毎月初めの午の日あるいは五日のことを「端午」といいました。
「今義解」(りょうのげき)には5月5日を節目とするとあり、「続日本後記」(しょくにほんこうき)では端午節は走馬(はしりうま)や騎射(きしゃ)を行なうとされ、さらに5月は田植えを前に身を清める月とされ、端午の日がその忌み籠(ごも)りの日であったこと、また、菖蒲(しょうぶ)が邪気をはらうとされ、軒先に挿したり、はちまきのように頭に巻いたりした風習などが結ぴつき、「5月5日」が「端午(菖蒲)の節供」となりました
また、この菖捕が「尚武(しょうぶ)」と同音であることから、武家では男子のお祝いとして、甲冑(かちゅう)や刀などを飾り、勇ましく成長することを祈ったのです。これがのちに形を変えて、武者人形飾りとなりました。ちなみに鯉のぽりは、滝をさかのぼる力強い鯉にあやかったものとされています。
3月3日のひなまつりが女の子の祝い日となったのに対し、5月5日は男の子の祝い日とされ、柏餅や粽(ちまき)を食べたり、菖蒲湯に入って健康を願ったり、甲冑(かっちゅう)や武者人形などを飾り鯉のぼりを立てて将来を祝います。

いろいろなお神札を一緒にお祀りすると神さま同士が喧嘩しませんか

神さま同士が喧嘩することはありませんから、複数のお神札を一緒にお祀りしてもかまいません。ただし、お神札の正しい祀り方を心得ておいてください。
まず伊勢神宮のお神札を中央に、氏神さまのお神札を向かって右側に、崇敬する神社のお神札を向かって左側にお祀りします。お神札を重ねてお祀りする場合は、一番手前に伊勢神宮のお神札を、その後ろに氏神さまのお神札を、次に崇敬する神社のお神札をお祀りします。
また、「○○祈願祈薦神璽」等と書かれ、願い主の名前が添えてあるお神札(祈祷札)は宮型には納めず、外側の見える位置に立ててお祀りしてください。これは特に祈願があって祈濤を受けたおしるしですから、宮型に納めたお神札と同様に、大切にお祀りしてください。

お人形を処分したいのですが

お人形を焚(た)き上げる神事を行う神社や寺院もありますが、一般的に神社境内で行われるお焚き上げは、神さまのお神札(おふだ)とお守りが対象となるので、お人形は扱いません。お人形は神社に持ち込まず、人形供養をする寺院に持ち込む方法がよいでしょう。
それから、寺院で受けたお札やダルマなどを納める場合には、信仰上の理由もあることから、それを受けた寺院へ感謝をこめて持参していただくのがいいでしょう。

お盆は仏教だけの行事なのですか

「盆」とは仏教固有の行事のように考えられがちですが、決してそうではありません。これは、正月行事などと同じように、古くから伝わる日本固有の先祖祭りの行事なのです。その日本の行事と、仏教でいう先祖供養の行事が一緒になり、盆として習俗化したといわれています。
盆には、亡き人の霊が家に戻ってくるとされ、もともとは旧暦の7月15日を中心に行われていましたが、現在では新暦の7月15日に行う地方と、旧暦の7月15日に近い8月15日に行う地方とがあります。
一般に盆という言葉は、孟蘭盆会(うらぼんえ)(梵語(ぼんご)ウラバーナの音訳)の略とされていますが、供え物を載せる容器を、かっては盆といったことから、この行事を盆というようになったとの説もあります。いずれにしても、盆という行事は日本人にとって、先祖の御霊を祭る意味を持つことから、とても重要視されているのです。

書き初め

古来、正月2日または5日に、吉方(えほう)(縁起の良いと言われる方角)に向かって、めでたい意味の詩歌成句(しいかせいく)などを書いていたことに始まり、「ふではじめ」ともいいます。また、この日は、事始めの日とされ、今でも、新年の挨拶廻りをしたり、商い始めの荷を初荷(はつに)と呼んで売先に荷物を運んだりすることも、そのためです。最近では、「書き初め」は、「稽古はじめ」としての意味合いが強くなっていますが、この日に始めると、一年中うまく進み上達するとされます。さらに、書き初めで書いたものを、正月に行われる左義長の火に投じ、その灰燼(かいじん)が高く舞い上ると、書の手が上がると喜び祝ってきました。
新春のすがすがしい気分の中に、墨を摩り、筆を取って文字を認(したた)めることも、心が静かに落ちついて、良いものです。

お中元

中国の道教では、一年を三つに区切り、1月15日を上元(じょうげん)、7月15日を中元、10月15日を下元(かげん)といい、これを三元と称しています。
中元の日には、人々が罪やけがれをあがなうために終日火をたいて、太乙(たいいつ)という天の神様をお祭りする行事がありました。これが日本へ伝わり、我が国に古来からある先祖祭りや仏教でいう先祖供養の行事と混同され、日本独自の中元へと変化し、この時期の贈答儀礼として受け継がれていったのです。
もともとは、祖霊へのお供え物を親戚が持参してきたことに始まる儀礼が、いつしか日頃お世話になっている親戚、知人、上司などに物を贈ることへと変わっていき「現在はその時期の贈り物そのものをさすようになりました。つきあいを重んずる人々の気持ちが、そのように中元を転化させたのでしょう。

除夜と年越し蕎麦(そば)

除夜とは12月31日の大晦日の夜のことで、「年越しの夜」ともいいます。この日は新しい年の穀物の稔りを約束して下さる正月の神様をお迎えするために・心身を清め、一晩中眠らずに過ごすことが古くからのしきたりでした。現在でも、青森県の上北郡など、眠らずに元旦を迎える地方があります。また、「御節」(おせち)とか「年取り」(としとり)と呼ばれる特別の祝い謄につく風習もあります。年越し蕎麦もその一つで、これには蕎麦のように家運や寿命が長く続くようにという意味が込められているといわれています。
神社ではこの日の夕方から大祓式(おおはらえしき)が行われ、正月を迎えるにあたって罪けがれを祓います。続いて本年最後のお祭りである除夜祭が行われ、今年一年の神恩への感謝と、来たるべき新しい年のご加護が祈願されるのです。

十五夜・十三夜に団子や餅を供えるのはなぜですか

「十五夜」とは旧暦八月十五日、新暦では九月中旬あるいは下旬に、満月を鑑賞する行事です。「お月見」「名月」「中秋の名月」ともいわれ、昔から月見の好時節として詩歌や俳句の題材にもなっています。
一般的に十五夜には、すすきを花瓶に挿して、団子と里芋や梨など、その時期の成り物を供えて、感謝の気持ちを表します。関西から中国地方にかけては、里芋を供えることから「芋名月」ともいい、もともとは芋類の収穫祭、すなわち畑作儀礼だったと考えられています。
このような月見の習慣は、中国では唐の時代からあり、これが日本に伝来しました。そして、畑作物の収穫に関連する行事へと発展し、現在に至るまで長い間伝承されてきたのてす。
十五夜から約一ヶ月後の、旧暦九月十三日を「十三夜」といい、十五夜に月見をしたら、必ず十三夜にも月見をするものとされていました。 十五夜だけでは、「片月見」といって忌まれていたのてす。 また、十三夜は「豆名月」または「栗名月」ともいわれ、枝豆や栗なども供えられます。

酉の市に熊手が売られるわけ

毎年十一月の酉の日に、大阪府堺市にある大鳥神社を始め、全国の大鳥神社で行われるお祭りに、商売繁盛を祈って立つ市のことを「酉の市」といいます。「お酉さま」「酉のまち」ともいわれ、東京においては浅草の鷲神社(おおとり)が有名です。
酉の市では、福徳をかき寄せる、福をとり(酉)寄せるというところから、おかめや千両箱などの飾りが付けられた熊手を、縁起物として求める参詣者の姿が多く見られます。
最初の酉の日を一の酉(初酉)(はつとり)、次を二の酉、その次を三の酉といいますが、この一の酉、二の酉というのは、一番目の酉の市、二番目の酉の市という意味です。一の酉が月初めにある年は、三の酉まであり、そういう年には火事が多いという俗信がありますが、その真偽の程はわかりません。

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