-- 2011.08.26 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2011.09.02 改訂
2011年8月4日(木)の宵に私は四天王寺の第57回「篝(かがり)の舞楽」(※1)を観て来ました。これは毎年8月4日に天王寺舞楽協会が催す恒例行事で、実は昨年も観ましたが昨年はカメラ無しで残念な思いをしましたので、今年はカメラを持参し写真とビデオに収めました。それにしても今年の夏は天候不順で8月に入っても未だ梅雨の様な天候が続いて居ましたが、この日の午後から晴れて来て夕方からは全くの快晴で幸運に思って居ます。何しろ舞台も客席も露天ですので雨降られたらどうにも成りません。屹度この日来場した皆さんの「普段の行い」が善かったからでしょう。
舞楽は午後7時に開演という事で、私は10分前位に境内に着き、チャリンコ(自転車)を西休憩所の前に置いて、5分前位に舞台が設置された伽藍内の講堂前庭に入場(入場料=¥1000)し、僅かに空いてる席に着きました。今年のプログラムは以下の通りです。
<第57回「篝の舞楽」のプログラム>
・主催者の挨拶
・振鉾
・篝の火入れ
・春庭花
・登天楽
・還城楽
・長慶子
主催:天王寺舞楽協会
演奏:天王寺楽所 雅亮会
後援:四天王寺
予定通り午後7時に始まりましたがエライはんの挨拶が有りましたので、最初の演目『振鉾』が始まったのは午後7時25分頃でした。
(@_-)
尚、中国の音楽や日本の雅楽(※1-1~※1-5)については
資料-音楽学の用語集(Glossary of Musicology)
を適宜参照して下さい。舞楽(※1)の補足に記した通り、この日の演目も全て外来楽舞です。
それでは、これから四天王寺の「篝の舞楽」を再現しますので会場に座した気分でご観賞下さい。
(1)振鉾
読みが難しい語ですが「えんぶ」(※2)と読みます。初めに
<振鉾(えんぶ)>
周の武王が殷の紂王を討伐した際に、商郊の牧野(=殷の郊外の草原地帯、殷人は「商」と自称)で左手に黄鉞(こうえつ) -黄色の鉞(まさかり)- 、右手に白旄(はくぼう、※3) - 犛牛(※3-1)の尾飾りの有る白旗- を持って天神地祇に戦勝を祈った故事に由来します。従って戦勝祈願の呪術を象った舞であり元来は厭舞(えんぶ)と書き(※2)、転じて舞台の邪気を祓い一連の舞楽の成就を祈願する為に舞楽の冒頭に必ず演じられます。
現在は鉞では無く鉾(ほこ)を持って舞うので振鉾(えんぶ)と言い、楽は乱声(※2-2)を奏し襲装束(=唐装束、※4)を着けて舞います。
管絃:竜笛、高麗笛、太鼓、鉦鼓
赤い装束と緑の襲装束を纏った2人の舞人が一人ずつ登場し二人揃ったところで鉾を掲げました(左下の写真)。そして二人一緒に舞台中央に進み出ます(右下)。
(2)篝の火入れ
『振鉾』で舞台が清められましたので、これから火入れです。
左の写真の様に白装束の人が舞台四隅の下の篝に松明の火を入れて居ます。これが「篝の火入れ」で午後7時40頃でした。これが篝火です。能では薪(たきぎ)と呼び「薪能」と言うのに対し、舞楽では「篝の舞楽」と言う習わしです。
私の席からは火入れの人が柱の陰に成って仕舞いましたので、次の舞の準備の間に私は席を立ち講堂の南西端に移動しました。
そして舞台とは反対方向の真西の空を見上げると、未だ明るさが残る群青の空に三日月が出て居ました(右の写真、→三日月の大写し写真は後出)。
これ以後、私は講堂の隅でずっと立ちっ放しで最後迄観賞しました。
(3)春庭花(春庭楽)
四天王寺では一帖だけ舞う時は春庭楽(しゅんていらく)(※5)と言い、二帖舞う時に春庭花(しゅんていか)と言うそうです。
<春庭楽(しゅんていらく)>
唐の則天武后の時代(在位690~705年)に作られたとされ、遣唐使の久礼真蔵が延暦年間(782~806年)が持ち帰った唐楽(※1-2)の一つです。当初は太食調でしたが、承和年間(834~848年)に仁明天皇の勅命で和邇部太田麿が双調に移調し犬上是成が春花の咲く美しさを四人舞に作舞しました。左方(=唐楽様式)の蛮絵の袍(※6~※6-1)の装束に巻纓緌(けんえいのおいかけ、※7~※7-2)の冠を被り腰に笏(しゃく)(※8、※8-1)を差し太刀を佩きくのは王朝時代の武官の正装でした。
管絃:鳳笙、篳篥(ひちりき)、竜笛、鞨鼓、太鼓、鉦鼓
私が移動した講堂の南西端から見ると「篝の舞楽」の舞台及び客席は左の様な感じです。舞台の背後のテントの下に楽人たちが居ます。その後ろの建物が金堂、更にその奥に五重塔が見えて居ます。私は先程迄右側に見える客席の中に座して居ました。
舞台上には舞人たちが登場して来ましたので、再び舞台に注目しましょう。
先ず舞人の装束から見て行きましょう。
左が舞人の上半身です。この上衣が袍(※6-1)で、襟が丸い盤領(まるえり)も確認出来ます。又、胸に袖に獣が向き合った図柄の丸紋が見えますが、これが蛮絵(※6)です。「蛮」は当て字で「盤絵(まるえ)」が本来の意味で、丸紋の中の獣は獅子です(△1のp104)。
そして右が舞人の装束全体で、左腰の太刀が見えて居ます。
左右の写真の冠が「巻纓緌の冠」です。天辺で黒い物 -纓(えい、※7-1)- が巻いて輪を成して居るのが判ります。これが巻纓(けんえい、※7)です。又、左の写真で頬を何やら黒い物が覆う様に張り出して居ますが、これが緌(おいかけ、※7-2)です。
右の写真の様に笏(※8)は背中の腰に差すんですね。
春庭楽は下の写真の様に4人で舞う四人舞(※5)です。春花の咲く美しさを表した舞(△1のp79)と言われる如く、左下が両手を広げ花が開く様子を、右下が両手を下ろし前屈みの姿勢で花が窄む様子を表現して居ます。
中々良いものでした。ところで私はこの舞楽に使った笙という竹製の楽器の生産地を旅して、小さいのを1つ買って来て家に在ります。笙に興味有る方は笙の写真を下からご覧下さい。
2002年・三江のトン族を訪ねて(Dong zu of Sanjiang, China, 2002)
★サブページで『春庭楽』のビデオ(size=1.11MB)をご覧に為れます。下をクリック!!
ビデオ-舞楽「春庭楽」(VIDEO - Bugaku 'Shunteiraku', Shitennoji)
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(4)登天楽
『春庭花』が終わりました。舞楽の合間に私が再び真西の空に目を遣るともう暗く成った快晴の夜空に見事な三日月(右の写真、午後8時13分頃)です。後で調べたらこの日は旧暦7月5日の月齢4.4で、今年は翌々日の8月6日が旧暦7月7日の七夕、8月8日が立秋です。この様に旧暦七夕は常に立秋の前後に来ます。
この月の写真は「月見の宴」でも掲載してます。
次は『登天楽』です。私はここでも余所見癖を発揮して月など観て仕舞いましたが、「登天」とは「天に登る」の意味ですから月を見上げた行為も「登天」に通じると言えなくも有りません。
<登天楽(とうてんらく)>
曲の由来や作者は不明。登殿楽(とうでんらく)とも書き、双調の高麗楽(※1-3)です。右方(=高麗楽様式)の蛮絵装束(※6) -平安時代の近衛の武官の正装- に巻纓緌(※7~※7-2)の冠に挿頭(かざし、※9)を挿して舞う四人舞。平安時代に我が国で創作されたとされる曲で、元は少年が舞う童舞(わらべまい)だった様ですが今は大人が舞います。
管絃:篳篥(ひちりき)、高麗笛、三ノ鼓、太鼓、鉦鼓
余談ですが、登天楽/登殿楽の様に「天」と「殿」が混用される雅楽の曲としては越天楽/越殿楽(※10)が有名です。
『登天楽』は前の『春庭花(春庭楽)』と同じく武官装束の四人舞ですが、前曲が唐楽であったのに対しこれは高麗楽です。楽器で比較すると竜笛・笙・鞨鼓が無く、その竜笛の代わりに朝鮮伝来の高麗笛が奏され、唐楽よりも清浄な澄んだ音色に聞こえます。
下の2枚の写真をご覧下さい。「巻纓緌の冠」も前曲と同じですが、右下の写真の右頭部に挿した白の造花が挿頭で、これが元は童舞と言われる所以でしょうか(△1のp86)。又、襟は合わせ襟です。
舞はしなやかで華麗です。
やはり背中の腰に笏を差して居ます(右の写真)。
★サブページで『登天楽』のビデオ(size=1.31MB)をご覧に為れます。下をクリック!!
ビデオ-舞楽「登天楽」
(VIDEO - Bugaku 'Totenraku', Shitennoji)
(5)還城楽(見蛇楽)
この日のプログラムを見て、私が一番楽しみな演目が『還城楽』(※11)でした。何故か?、それは蛇です、蛇。その理由は後述します。
<還城楽(げんじょうらく)>
林邑(※11-1、※11-2)の僧・仏哲が伝えた林邑系唐楽(=林邑楽、※11-3)で一人舞です。元来は乞食調ですが日本では大食調で奏されます(△1のp70)。由来は蛇食の習慣が有る西域人が蛇を捕らえて悦ぶ様を表したとも、インドのバラモン教のヴェーダ神話の抜頭王が悪蛇を退治し喜んだ逸話に由来するとも言われ抜頭の番舞(つがいまい)(※11-4)とされることから、見蛇楽(けんじゃらく)が訛って混同されて伝わった様です。舞は赤い忿怒の仮面を着け、初め蛇の周囲を回り遂には蛇を掴んで歓喜勇躍する走舞(=活発な動きの舞)は独特です。
楽は舞人が登場する前に小乱声、登場後から蛇捕獲前は陵王乱声、蛇捕獲後の歓喜勇躍を当曲(←四天王寺では当寺に伝承される夜多羅拍子(やたらびょうし)を用いる)、最後は安摩乱声を奏し退場します。
管絃:鳳笙、篳篥(ひちりき)、竜笛、鞨鼓、太鼓、鉦鼓
それ迄の舞が抽象的なのに対し、この舞は超具体的なので解り易いの一言。前者が静かな動きの平舞でしたが、この舞は活発に動く走舞です。
左下は舞台に登壇直後のポーズですが動作が大袈裟なので滑稽です。右下が立ち上がったところです。首に差してるのが桴(ばち、※11-5)です。
暫く舞人が一人舞を演じてる間に補助の「蛇持ち」が蜷局を巻いた金色の蛇を舞台上に置いて去ります。左下の写真が舞台上に置かれた蛇の模型です。舞人は蛇に気付き蛇の周りを回りだしますが、やがて遂に蛇を捕らえます。中央下が捕らえた蛇を掲げたところです。右下はその蛇の拡大です。
この後、舞人は捕らえた蛇を振り回し乍ら夜多羅拍子の当曲に乗って狂喜乱舞し、『還城楽』のクライマックスに突入します(右の写真)。
ご覧の様に右手に桴を持ち、左手に蛇を掴んでの喜悦の表情です。グロテスクな仮面が何処かユーモラスです。蛇に狂喜乱舞する様子はビデオでご覧下さい。
★サブページで『還城楽』のビデオ(size=1.72MB)をご覧に為れます。下をクリック!!
ビデオ-舞楽「還城楽」(VIDEO - Bugaku 'Genjoraku', Shitennoji)
それにしても『還城楽』 -否、『見蛇楽』(※11)と言うべきか- は、めちゃ面白い。最初に述べた様に兎に角解り易い上に楽のテンポが速くて乗りが良いので、雅楽や舞楽など初めてという人にも入って行ける演目だと思います。
それは扨置き、蛇を頬擦せんばかりに振り翳して狂喜乱舞するというストーリーは大多数の日本人には異常です。これを日本に伝えた仏哲和尚は林邑(=今のベトナム南部)の人ですから蛇を食ってた人かもと思いますが、実を言うと私は「蛇を食う人々」に少なからぬ親近感を持って居ますので、それ故にプログラムを一読してこのストーリーに大変興味を覚えた訳です。蛇食については下のページをご覧下さい。
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
民族変わればゲテモノ変わる(About the bizarre food)
又、蛇を平気で手掴みする人は下のページをご覧下さい。
中国のケッタイな人々(Chinese strange persons)
私って異常かしら?!、ブワッハッヘッヘッヘ!!
(^O-)
ところで『還城楽』は『平家物語』にも出て来ますゾ。巻4-「競」の段に、豪放な小松大臣(こまつのおとど、※12) -平重盛(※12-1)のこと- が参内の折に八尺、即ち2m以上の大蛇が大臣の袖を這ってたのを大臣ムンズと掴み袖の中に入れて源伊豆守仲綱を驚かそうと蛇を見せました。翌日大臣は非礼の侘びに名馬を贈ると伊豆守は礼を述べた後で「さても昨日の御振舞は、還城楽にこそ似て候しか」と申した、と在ります(△2のp210~211)。因みに源伊豆守仲綱は鵺退治で知られた源頼政の息子です。しかし乍ら、王朝時代は”むくつけき武人”でも舞楽を嗜んで居たんですなぁ、唯々感嘆するのみです。
又、江戸後期の狂歌には次の様に詠まれて居ます(△3のp80)。
君ゆゑに けふの試楽も のらくらと 還城楽の へびつかふなり
濱邊黒人
試楽(しがく)(※10-2)とは公式の舞楽の試演です。
{『平家物語』の話と狂歌は2011年9月2日に追加}
(6)長慶子
最後の『長慶子』(※13)は管絃のみです。
<長慶子(ちょうげいし>
源博雅(※13-1)が作曲した太食調の唐楽。楽のみ伝わり舞は無い。慶祝の意を有し、舞楽の最終曲・退出曲として奏さる習わしです。
管絃:鳳笙、篳篥(ひちりき)、竜笛、鞨鼓、太鼓、鉦鼓
左は舞台南側桟敷で楽を奏する楽人たちです。実はこの写真は『長慶子』演奏時のものでは無く、火入れ直後の『春庭花』開始時に撮ったものですが、『春庭楽』も同じく唐楽ですのでイメージを汲み取って下さい。
『長慶子』を作曲した源博雅に纏わる伝説的逸話は『今昔物語集』(※14)に詳しく記され、博雅が逢坂の蝉丸(※13-2)の庵に3年通い遂に琵琶の秘曲『竜泉』『啄木』を蝉丸が仕えた敦実親王流(※13-3)の奏法で伝授された話(巻24第23話)や、村上天皇が紛失した「玄象」(※13-4)という琵琶の名器を羅城門で鬼から取り戻した話(巻24第24話)が載って居ます(△4のp130~135)。
『長慶子』の演奏開始と共に本日の「篝の舞楽」は終了し観客は退場し始めました。『長慶子』は退出の曲ですから、それで良いのです。
{源博雅の逸話は2011年9月2日に追加}
こうして午後7時に始まった「篝の舞楽」は9時前に終了しました。右はライトアップされた五重塔で、観客や楽人たちも引き上げ始めて居ます。空は未だ快晴です。四天王寺はもう盂蘭盆会万灯供養(8月9日~16日)の準備に取り掛かって居ます。万灯供養には毎年大勢の人が訪れ付近はごった返します。
さて、2011年の四天王寺「篝の舞楽」は如何でしたでしょうか、楽しんで戴けたら幸いです。私は日本人は日本の伝統芸能にもう少し関心を持つべきだ、と常々思って居ます。
自分の国の文化にもっと親しもう!!
「篝の舞楽」は全くの快晴の中で催されましたが、この日の深夜から又雨が降り出し元の不順な天候に逆戻りして仕舞いました。本当に「篝の舞楽」の為にだけ晴れたかの様でした。そして大阪では翌日の8月5日(金)の夕方に大雨が降って、翌6日(土)からやっと夏らしい天候に成りました。
【脚注】
※1:舞楽(ぶがく、court dance and music, bugaku)は、[1].広義には、舞踊・舞踏の伴奏音楽で、どんな未開の民族にも存在する。
[2].日本では、雅楽の器楽合奏を伴う舞踊音楽の演出法、又は曲を言う。これにも2種類在る。←→管弦・管絃(器楽合奏のみ)。
[a].日本特有の古楽で舞うもので、日本制定の文の舞として五節舞(ごせちのまい)などが、武の舞として久米舞などが有り、この2つはそれぞれ一番(ひとつがい)として天皇の即位などの際に行われる。
[b].外来楽で舞うもので、左舞(唐楽系)と右舞(高麗楽系)とが有る。更に文の舞(現今では平舞(ひらまい))と武の舞とが有り、左右各1曲を組み合わせて一番(ひとつがい)とし、1~6人で舞う。舞の型や動き、装束や仮面など全て古い外来の様式に依る。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
補足すると、我が国で通常「舞楽」と言った場合、[2].[b]即ち外来楽舞を指す事が多い。
※1-1:雅楽(ががく、Japanese ceremonial court music)は、(雅正の楽舞の意)元来は祭祀用楽舞を指したが、後には饗宴用楽舞をも含めての宮廷の楽舞の総称。国風歌舞(くにぶりのうたまい)・外来楽舞・歌物(うたいもの)に大別される。国風歌舞は、神楽・東遊(あずまあそび)・久米舞など、日本古来の皇室系・神道系の祭祀用歌舞。外来楽舞は唐楽(とうがく)と高麗楽(こまがく)とから成る宮廷の饗宴用楽舞で、平安初期迄に伝来した楽舞に基づく。歌物は平安中期頃成立の饗宴用の声楽曲で、催馬楽と朗詠。狭義の雅楽は外来楽舞を指す。
※1-2:唐楽(とうがく)とは、[1].中国唐代の音楽。
[2].雅楽の外来楽舞の二様式の一。[1]と林邑楽(りんゆうがく)とを併せて平安時代に様式が統一された曲種で、日本で新作された曲目をも含む。管絃と舞楽の両様の演出法が有る。管絃の楽器編成は竜笛(りゅうてき)/篳篥(ひちりき)/笙(しょう)/琵琶/箏(そう)/鞨鼓(かっこ)/鉦鼓(しょうこ)/太鼓の8種、舞楽のそれは上記から琵琶と箏を除いた6種。左方唐楽。左方の楽。左楽(さがく)。←→高麗楽(こまがく)。
※1-3:高麗楽(こまがく)とは、[1].三韓楽の一。高句麗起源の楽舞。臥箜篌(がくご)の使用が特徴的。→箜篌(くご)。
[2].雅楽の外来楽舞の二様式の一。三韓楽(さんかんがく)と渤海楽(ぼっかいがく)とを併せて平安時代に様式統一されたもので、日本で新作された曲目をも含む。演奏は舞楽形式のみで行う。楽器編成は高麗笛/篳篥(ひちりき)/3ノ鼓(さんのつつみ)/鉦鼓(しょうこ)/太鼓の5種。右方高麗楽。右方の楽。右楽(うがく)。←→唐楽。
※1-4:文の舞/文舞(ぶんのまい)は、雅楽で、剣や鉾(ほこ)などを持たないで舞う舞。青海波(せいかいは)など。平舞(ひらまい)。←→武の舞。
※1-5:武の舞/武舞(ぶのまい)は、雅楽で、剣や鉾(ほこ)を持って舞う舞。倍臚破陣楽(ばいろはじんらく)の類。←→文の舞。
※2:厭舞/振鉾/振舞(えんぶ)は、(「厭勝(=まじない)の舞」の意)舞楽の初めに奏する楽。乱声(らんじょう)を奏し、左右一人ずつの舞人が常装束で鉾(ほこ)を執って舞う。悪魔を調伏し災いを消す姿と言う。えぶ。
※2-1:厭勝(えんしょう)とは、[漢書王莽伝下]呪(まじな)いして、人を押さえ鎮めること。又、その呪い。
※2-2:乱声(らんじょう)とは、[1].雅楽で、主として舞人の出に奏する曲。用いる場合に依り古楽乱声/新楽乱声/小乱声などの曲別が有り、拍子に囚われずに吹く笛に太鼓・鉦鼓を合奏し、乱れた声に聞える。らんぞう。枕草子278「―の音、鼓の声にものもおぼえず」。
[2].舞楽及び競馬/相撲の勝方で、笛/鐘/鼓を盛んに合奏すること。らんぞう。源氏物語蛍「勝まけの―どもののしるも」。
[3].戦争で、鉦(かね)や太鼓を乱打して鬨(とき)の声を立てること。平家物語9「つねに太鼓をうつて―をす」。
※3:旄(ぼう)とは、犛牛(りぎゅう)の尾を飾りに用いた旗。「旄牛(からうし)」。
※3-1:犛牛(りぎゅう)は、毛色の斑(まだら)な牛。日葡辞書「リギュウ。マダラウシ」。
※4:襲装束/重ね装束(かさねしょうぞく)とは、舞楽に着用する装束の一。赤大口/差貫/下襲(したがさね)/半臂(はんぴ)/忘緒(わすれお)/袍(ほう)/金帯(左方)/銀帯(右方)/甲/踏掛(ふがけ)/糸鞋(しがい)などを付ける。唐装束。常装束。
※5:春庭楽(しゅんでいらく)は、雅楽の一。唐楽に属する双調(そうじょう)の曲。四人舞。舞楽では「春庭花」と言う。春庭子。夏風楽。
※6:蛮絵/盤絵(ばんえ)は、円形の模様。近衛の随身の袍(ほう)や舞楽の装束、又は調度に付ける、鳥獣・草花などを染め出し又は繍(ぬいとり)したもの。
※6-1:袍(ほう)は、束帯や衣冠などの時に着る盤領(まるえり)の上衣。文官用を縫腋(ほうえき)の袍、武官や少年用を闕腋(けつてき)の袍と言い、位階に依って服色を異にするので位袍とも言う。当色(とうじき)に拘泥らず好みの色に依るのを雑袍(ざっぽう)と言う。うえのきぬ。
※7:巻纓(けんえい/まきえい)とは、纓を巻き、黒塗り又は白木の夾木(はさみぎ)で留めたもの。武官用。
※7-1:纓(えい)は、冠の付属具。中世以降の纓は羅や紗の縁に芯を付け漆を塗って製し、冠の後に垂れる。立纓・垂纓・巻纓・細纓・縄纓などの種類が在る。元、巾子(こじ)の根を締めた紐の余りを、背後に垂れ下げたものの名残。
※7-2:緌/老懸(おいかけ/ほおすけ)は、武官の冠の左右に付けた飾り。馬の尾を用い、一端を編んで扇形に開いたもの。冠の緒。〈和名抄12〉。
※8:笏(しゃく/さく/こつ、scepter)とは、(字音コツが「骨」に通うのを忌み、長さが略1尺である所からシャクと呼んだと言う)束帯着用の際右手に持って威儀を整えた板片。唐制の手板(しゅはん)に倣う。元は裏に紙片を貼り、備忘の為に儀式次第などを書き記した。今日では衣冠/狩衣/浄衣などにも用いる。令制では五位以上は牙笏(げしゃく)と規定されたが、延喜式では白木が許容され、以後礼服以外は全て一位(いちい)・柊(ひいらぎ)・桜・榊・杉などの木製と成った。長さ1尺3~5寸、幅上2寸2~3分、下1寸5分、厚さ2~3分。〈和名抄14〉。
※8-1:牙笏(げしゃく、ivory scepter)とは、象牙で作った笏。五位以上の礼服/朝服の時に使用したもの。
※9:挿頭(かざし)とは、頭髪、又は冠に挿した花枝や造花。万葉集10「わが背子が―の萩に置く露を」。
※10:越天楽/越殿楽(えてんらく)は、雅楽の一。唐楽の小曲で舞が無い。平調(ひょうじょう)・黄鐘調(おうしきちょう)・盤渉調(ばんしきちょう)の3種が在り、旋律が違う。平調の曲が有名で、その旋律に歌詞が付き、今様としても歌った(越天楽今様)。更に越天楽今様から黒田節が派生。
※10-1:黒田節(くろだぶし)は、福岡の黒田藩の武士らに依って作詞・愛唱された唄。越天楽今様から出たもので、初めは筑前今様と呼ばれた。歌詞「酒は飲め飲め飲むならば~」に依って酒席歌として昭和の初めに一般に普及。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※10-2:試楽(しがく)とは、雅楽で、公式の舞楽の試演。源氏物語末摘花「行幸近くなりて―などののしる頃ぞ命婦は参れる」。
※11:還城楽(げんじょうらく)は、(見蛇楽(けんじゃらく)の転とも言う)雅楽の一。唐楽に属する林邑楽系で、太食調の曲。舞楽にも管弦にも用いる。「抜頭(ばとう)」の番舞(つがいまい)で、一説にヴェーダ神話の抜頭王(Pedu)が退治された悪蛇を見て歓喜勇躍する様を表すと言う。一人舞。赤顔・深目で釣顎(つりあご)の仮面を着け、1尺1寸の桴(ばち)を持ち、舞台に置かれた金色の木製の蛇を持って歓喜跳躍する。
※11-1:林邑(りんゆう)は、後漢末の頃から隋初に掛けて、インドシナ半島南東部を占めたチャム族の王国。唐以後、占城(チャンパ)の名で知られた。
※11-2:占城/占婆(チャンパ、Champa)は、インドシナ半島南東部のチャム人の建てた国。2世紀末に独立。中国では古く林邑と称し、唐末から占城と称。海上交通路の要衝に当たり、中継貿易で繁栄。朱印船貿易で日本の商人も多数渡航。17世紀末に滅亡。チャボ。
※11-3:林邑楽(りんゆうがく)は、天平時代に南インド出身の菩提僊那(ばたいせんな)と林邑出身の仏哲(ぶってつ)とが渡来して伝えた楽舞。インド起源の天竺楽の系統と見做される。平安初期以降、唐楽に編入。
※11-4:抜頭/撥頭/髪頭(ばとう)は、雅楽の一。唐楽に属する太食調の林邑楽系の曲。管弦にも舞楽にも用いるが、互いに拍子が違う。長髪の有る仮面を着け、桴(ばち)を持ち髪を振り乱して舞う。一人舞。
※11-5:桴/枹(ばち)は、[1].太鼓・銅鑼(どら)などを打ち鳴らす棒。〈十巻本和名抄6〉。
[2].舞楽の「陵王」「抜頭(ばとう)」などの舞人が持って舞う棒。
※12:小松殿(こまつどの)/小松内府(こまつのないふ)/小松大臣(こまつのおとど)とは、(邸が今の京都市東山区小松谷に在ったから)平重盛の別称。
※12-1:平重盛(たいらのしげもり)は、平安末期の武将(1138~1179)。清盛の長子。世に小松殿・小松内府、又は灯籠大臣と言う。保元・平治の乱に功有り、累進して左近衛大将、内大臣を兼ねた。性謹直・温厚で、武勇人に勝れ、忠孝の心が深かったと伝えられる。
※13:長慶子(ちょうげいし/ちょうげし)は、雅楽の一。唐楽に属する太食調(たいしきちょう)の小曲。舞は無い。舞楽番組の最終曲として、又、儀式の終りの諸員退出の時に奏する。源博雅の作と言う。
※13-1:源博雅(みなもとのひろまさ)は、醍醐天皇の皇子克明親王の子(918~980)。従三位皇太后権大夫。博雅三位(はくがのさんみ)と通称。琵琶・箏・笛・篳篥(ひちりき)などの名手で、作曲や著述もした。横笛譜「新撰楽譜(長竹譜)」は一部現存。代表作「長慶子(ちょうげいし)」。蝉丸から秘曲を授かったなど、音楽に関する伝説に富む。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※13-2:蝉丸(せみまる)は、平安前期の人。宇多天皇の皇子敦実親王の雑色(ぞうしき)とも、醍醐天皇の第4皇子とも言い、盲目で和歌・琵琶を良くし、逢坂山に住し、博雅三位に秘曲を授けたと言う。
※13-3:敦実親王(あつみしんのう)は、宇多天皇の皇子(893~967)。母は藤原胤子。宇多源氏の祖。六条宮・八条宮、又、入道して仁和寺宮と称。鷹・馬・蹴鞠・和歌、殊に和琴(わごん)・琵琶の名手で、源家音曲の祖と言われた。
※13-4:玄象/玄上(げんじょう)は、琵琶の名器の名。比類無い霊物と称せられ、逸話に富む。枕草子93「御琴も笛も、みなめづらしき名つきてぞある。―・牧馬・井手...など」。
※14:今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)は、日本最大の古代説話集。12世紀前半の成立と考えられるが、編者は未詳。全31巻(その内28巻現存)を、天竺(インド)5巻、震旦(中国)5巻、本朝21巻に分け、各種の資料から一千余の説話を集めて居る。その各説話が「今は昔」で始まるので「今昔物語集」と呼ばれ、「今昔物語」と略称する。中心は仏教説話であるが、世俗説話も全体の3分の1以上を占め、古代社会の各層の生活を生き生きと描く。文章は、漢字と片仮名に依る宣命書きで、訓読文体と和文体とを巧みに混用して居る。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『雅楽がわかる本(日本古典芸能シリーズ)』(安倍季昌著、たちばな出版)。
著者の安倍季昌氏は安倍家(篳篥を楽業とする楽家)の29代目です。この本は雅楽の用語・楽理・楽曲・楽器及び楽人渡来と日本の雅楽・楽家の成立の歴史を、非常に要領良く簡潔に纏めて在りますので雅楽入門書としてお薦め。
△2:『平家物語(上)』(山田孝雄校訂、岩波文庫)。
△3:『万載狂歌集』(大田南畝(蜀山人)撰、野崎左文校訂、岩波文庫)。
△4:『今昔物語-若い人への古典案内-』(西尾光一著、現代教養文庫)。
●関連リンク
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@参照ページ(Reference-Page):中国の音楽や日本の雅楽について▼
資料-音楽学の用語集(Glossary of Musicology)
@参照ページ(Reference-Page):日本の旧暦について▼
資料-「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
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