最初のもくじ(index)に戻る 



赤木 いし        嘉永5年(1852)3月15日〜昭和10年(1935)8月8日
 明治〜昭和期のクリスチャン

 備中国高梁に生まれる。父は川瀬平治、母は若乃。

 明治元年(1868)、同郷の医師赤木蘇平と結婚した。蘇平は、倉敷や大阪で医術を学んだ。蘭学を志していたが、明治元年(1868)、郷里に戻っって医院を開業した。

 同12年(1879)、岡山から金森通倫らがキリスト教伝道に来たのに次いで、アメリカン・ボード宣教医ベリー,J.C.が施療所を開設したことから、夫の蘇平は西洋医学に関心をもち、ベリーに接触するようになった。やがてベリーのピューリタン的人格に惹かれていった。

 蘇平は、翌年、新島襄の伝道などによりキリスト教に開眼し、明治15年(1882)4月26日、高梁教会設立の日に金森通倫から受洗した。そのとき、柴原宗助も一緒に受洗した。

 高梁にはキリスト教伝道がなされる以前から開交社という政治クラブが組織されて、自由民権運動、国会開設運動が進められていたが、キリスト教導入にも積極的であった。蘇平は、高梁教会設立者のひとりとして、また教会役員としても教会の発展に尽くした。

 いしは、夫が受洗しても自分はキリスト教を信じまいと固く決心していた。しかし、二宮邦次郎、金森通倫らから教えを受け、また当時赤木家に同郷していた留岡幸助にも勧められて教会に通うようになった。こうして、いしも翌16年、牧師金森通倫から受洗した。

 当時の高梁はキリスト教を忌避する考え方が根強く、キリスト教徒とは交際しないという申し合わせがあった。そのため、夫・蘇平の営業する医院の患者は次第に減って、家計は困窮を極めた。だが、蘇平は医師としては貧富を問わず患者に接した。そのこともあり、身内の親や兄からも棄教を迫られたが、いっそう信仰を強めた。かえって大酒のみで乱暴者の義兄を信仰に導き回心させた。

 夫の蘇平は、明治38年(1905)3月22日、死去した。神はいしに102歳まで地上の生活を与えられた。
<やりかけ>
二宮邦次郎  備中高梁生まれの牧師。岡山の金森通倫によってキリスト教を知り、新島襄の勧めで同志社速成神学科に学び、帰郷して日曜学校を開設した。受洗は新島襄から授かった。再度、同志社で学び直したあと高梁で本格的な伝道を開始し、高梁教会の設立に尽力した。

 また、今治で横井時雄を助け、小松に開拓伝道を行い小松(伊予小松)教会設立へと、続いて松山伝道を行い松山第一基督(松山)教会を設立させて牧師に就任した。 キリスト教主義女子教育の必要性を感じて(1886)9月松山女学校( 松山東雲学園)を創立、以来校長を兼務して伝道と教育に尽力した。

 さらに(1891)松山夜学校 松山学院を開設して労働者教育に尽くしたり、(1898)施療院を夜学校に設置して教会付属とすることで地域に貢献した。

 教会から1年間の休暇をとり、巡回伝道師として函館教会の設立をはじめトド休会、熊本教会を支援した。こうしたことを通して自給独立の基礎固めをした。のち、 京橋(霊南坂)教会を再興して牧師に就任した。
金森通倫  明治5年(1872)熊本洋学校の第二期生として入学。ジェーンズ,L.L.の薫陶を受け、(1876)の花岡山奉教結盟に参加。同年秋、同志社に入学し、新島襄から受洗。(1879)6月予科を終えてどん同活動を行い、翌年10月に岡山教会の創立時に牧師としての按手礼を受けて初代牧師に就任。(1886)には同志社に戻り、新島襄の大学設立の夢に募金活動などで大いに貢献。

 やがて新神学の信仰を公表して日本組合基督教会を脱会、自由党に入党、三井鉱山その他の実業界で活躍。全国的に貯蓄遊説などもしたが、妻・小寿の没後は回心して組合教会に復帰し、山室軍平の救世軍に入隊したり、中田重治の東洋宣教会日本ホーリネス教会に入会、百万救霊を展開するなど積極的に活動をした。

 海外にも出向いたが、結局は救世軍もホーリネス教会からも脱会して、(1933)湘南の嶺山に隠居して洞窟生活を送り、<今仙人>と称された生活後、福島県郡山で(1945)3月4日に永眠。
ジェーンズ,L.L.  熊本洋学校教師として、明治4年(1871)7月、フルベッキ,G.H.F.の斡旋で来日。ひとりで諸教科を担当し、自宅で開催した聖書講義に導かれた生徒たちが花岡山奉教結盟を結成した。妻ハリエットは、スカッダー宣教師の姉に当たる。
柴原宗助  高梁の酒造業柴原家の養子となっていたが、キリスト教に関心を示し、高梁教会設立の日に受洗した。その際に禁酒を決意して酒樽を開いて高梁川に流し、家業を改めて本屋兼雑貨商を営み、文開堂と名づけた。県会議員を務めたり、民権運動に参加するなど、社会運動に関心を示した。

 また、福西志計子が私立裁縫所から興した高梁順正女学校の設立を後援し、初代校長をもつとめた。さらには私立高梁病院の発起人となって地域の発展に貢献した。(1886)からは京都に出て寺町丸太町上ルに撫子書院(書店)を開いたり、岡山に戻って井原町の町長、有漢の村長などを勤めた。井原町には宗助を記念した銅像が建てられたが、第二次大戦中に強制供出させられたために碑文のみが残存。
留岡幸助  理髪業の次男として高梁に生まれた。生後まもなく留岡金助・勝子の養子となり、8歳で漢学塾に学び、小学校に通う。
 明治13年(1880)にキリスト教を知り、高梁教会で受洗。漢学の塾に通っていたころ武士の子とけんかして、翌日、父が武家屋敷に呼び出され出入り禁止となったために激しい折檻を受けた。のちキリスト教の伝道で「士族の魂も町人の魂も赤裸々になって神の前に平等」の精神を信仰に表明して貫いた。

 先妻・夏子も高梁教会で受洗して神戸女子伝道学校を卒業して夫の伝道、社会事業に苦楽をともにした。北星学園短期大学学長・留岡清男の生母である。後妻・きく子は高梁順正女学校を卒業後、幸助の巣鴨家庭学校の保母をつとめ、先妻の6人の子と、さらに四男三女の生母として夫・幸助の教育実践や社会事業を支えた。
出典 『キリスト教歴史』 『女性人名』 『松山教会九十年略史』 『熊本バンド研究』
松山東雲学園(http://www.shinonome.ac.jp/shinonome/03chuko/ck_aisatsu.htm
福西志計子(http://www.takahasi.okayama-c.ed.jp/yuusyu/sub21.htm
日本キリスト教団霊南坂教会(http://www.reinanzaka.jp/
http://www.dokidoki.ne.jp/home2/tayori/
松山学院(http://www.k-doumei.or.jp/member/matuyama.htm
トップに戻る