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 山室 機恵子         明治7年(1874)12月5日〜大正5年(1916)7月12日

山室機恵子と言えば、まず救世軍の山室軍平の名を思い浮かべる人々が多いであろう。機恵子は、彼の妻として、7人の子の母として、明治・大正期の社会事業家としての生涯を送った女性である。

 機恵子は、岩手県花巻川口町の佐藤庄五郎の長女として生まれる機恵子の上に兄1人、下に弟3人の5人兄弟の上から2番目のたったひとりの女の子とし誕生。

 父・庄五郎(嘉永5年<1852>生まれ)は幼くして両親を失い、20歳になる姉と二人だけが残された。姉は一切の縁談を断って弟・庄五郎の養育に当たった。庄五郎が11歳のとき、熱病にかかり姉の専心介抱にもかかわらず絶望の宣告を受けたが、姉は深夜神社に詣でてわが身をかわりにしても弟・庄五郎の命を救いたまえと平癒の祈願をするほどであった。庄五郎は願い叶って快復したが、姉は熱病に感染して亡くなった。

 そればかりでなく佐藤家は、由緒ある家柄で代々南部藩に仕えたが、天明の大飢饉で餓死者が続出するのをみかねて全財産を投げ出して救済に尽くした。家産が回復すると、今度は天保の飢饉にあい、再び財産を傾けて罹災者の救済に尽くした。家族思いの佐藤家は困窮している周囲に対して慈善家として名望が高かった。こうした精神風土が機恵子を救世軍の母としたことが頷ける。

父・庄五郎は明治維新で家禄を離れたが、その後、福島県で養蚕業を学び、花巻に戻って養蚕業を起こし、地域指導をも広く行い、自宅に絹糸をとる工場を始めた。花巻から起こった養蚕業は全県下にまで広まった。また農村改良にも尽力した。備荒食の研究が『女学雑誌』(No.499)に載っている。

機恵子は8歳で小学校に入学。
 成績はいつも首席か2位だったが、2位に落ちたときには悔しくて泣いて帰った来たとのエピソードが残っているほど勝気で負けず嫌いな気性だった。花巻の女子では異例のことであるが、さらに高等小学校に進むかたわら岩手県一の漢学者名須川他山のもとで漢学を学んだ。11歳のころから自宅の工場で糸をとることを習い働きもした。学校を卒業すると半年ほど小学校の教師をつとめた。漢学者名須川の強い要請であった。

儒教的思想と武士道の家風のなかで育った機恵子にとっては、父の命を救った伯母や祖先の話を聞くたびに将来、何かをする人間になりたいと志をもったことは佐藤家の家風にすなおであったことがうなずける。とともに家庭教育の意義を教示している、ともいえよう。

 世のために身を捨てて尽くすことは佐藤家の家風である。後年、機恵子が救世軍を通して献身の生涯を全うしたことは、聖書の教えと相俟って佐藤家の開明的な素風家としての血が騒いだであろう。

 明治14年、明治天皇が東北御巡幸で花巻に立ち寄った折、父・庄五郎が蚕種と桑の葉を献上した。このときの御下賜金を受領した。庄五郎はいただいた御下賜金を国家に有為な人材育成に用いることを決意し、子女の教育資金にあてることにした。
 御下賜金の恩恵で、兄・孝皐蔵は15歳で上京して攻玉社(東京海軍予備校)に、機恵子は18歳で明治女学校に進んだ。明治24年(1891)のことだった。

明治女学校は、木村熊二・鐙子によってキリスト教主義の女学校として開設された。経済学者田口卯吉は鐙子の弟である。鐙子の死後、厳本善治が引継いだ。善治の妻となったのがフェリス和英女学校第一期生の若松賎子で、バーネットの「小公子」の翻訳者である。

機恵子が明治女学校を選んだ理由として、親戚同様に親しくしていた佐藤昌蔵の娘・輔子が明治女学校で学んでいたことが大きい。明治女学校には、新宿中村屋の相馬黒光や自由学園創立者羽仁もと子、作家野上弥生子らも学んだ。機恵子が在学したころの教授陣は植村正久、内村鑑三、星野天地、津田梅子らであったが、島崎藤村、北村透谷なども教壇に立った。シェークスピアその他の英文学を原書で読み、漢学の程度も相当高かい教育を受けた。

 明治女学校の生徒たちは日曜日には植村正久が牧会する一番町教会(現在の富士見町教会の前身)へ通った。植村正久の説教に感動して入信する女生徒は結構いた。機恵子もその一人で、明治24年(1891)に受洗した。しかし、明治33年(1900)1月4日、救世軍加入により除名となる。そのとき、除名になった教会員にユニテリアン教会に加入した島田三郎、そして天主教会加入の増田たきがいた。

 武士の家に生まれ、当時の道徳規範である儒教主義によって家庭教育を受けてきた機恵子にとって、武士道の教えはキリスト教道徳律との共通点を抱いたらばこその受洗であった。植村正久自身も「社会をして武士道の昔に帰らしめよ。否むしろ吾輩が欲する所の者は洗礼を受けたる武士道なり」と説いた。植村正久の家は家老職であった。

 明治26年4月に、明治女学校普通科を卒業後、同28年4月、22歳の春、高等文科を卒業した。明治女学校で発刊されていた『女学雑誌』の編集を手伝うかたわら、大日本女子教育会が設立した女紅学校で教えた。この学校は貧しい家庭の娘たちの職業教育を目指して下田歌子、棚橋絢子らの名流婦人が設立した。機恵子は、さらに東京婦人矯風会軍人課の無給書記として奉仕した。やがて山室軍平と結婚するが、その後の当会における活躍の記録が『婦人新報』でわかる。

そのころ、陸海軍の下級兵士が酒色におぼれ、厄介な病気を背負い込んで苦しんでいることを聞き、兵士に娯楽と休養所を与えたいと軍人慰藉事業を真剣に考え、図書館に通って資料をあさり計画を練った。当時は日清戦争の最中で、兄・皐蔵も海軍少尉として軍艦に乗り込んでいた。戦場で御奉公できない女子として何ができるか、機恵子は真剣に考えた。そのとき、名案が浮かんだのだった。このとき松本荻江と知り合いになって意気投合、麹町下6番地の荻江宅に同居してさらに計画を練り進めた。

 明治30年(1897)ごろの婦人矯風会の内部組織の「軍人風俗ノ部」を機恵子が分担している。機恵子がこうしたことに関心をもったことから矯風会のなかで軍人課を担当しているのか、担当させられたことから関心をもったのかについては詳細を調査する必要があるが、兄・皐蔵からの影響もあるだろう。

 ともあれ、東京婦人矯風会設立「第十年紀念大会」が同30年12月4日に女子学院で開催され、機恵子は会頭矢嶋楫子の指名で書記に選出された。年次総会を「婦人矯風会中央部第六回紀念会」として4月3〜4日に開催しているが、ここにおいて機恵子は役員(常置委員、理事)として名を連ねた。

 明治28(1895)年の秋、救世軍が日本に初上陸した。10数人のイギリス人士官は日本家屋に住み、日本の着物を着て日本食を食べて日本に同化しようと努めた。当時の新聞はこぞって珍しい外国人として一隊を記事にした。西洋法華、風変わりなドンドコ宗とからかい、その精神を理解しようとするものは稀であった。

 機恵子は、世間の評判が高いので興味をそそられて松本荻江と同道して新橋の救世軍会館を覗いてみた。イギリス人たちの真剣な伝道の努力に敬服したが、慣れない和服で正座するのに苦労して、ついに人前で足を投げ出す姿を見て気の毒に思った。

 善と信じた事に関しては物怖じしない積極的な性格を家風として受け継いだ機恵子は奉仕を申し出た。それは、機恵子が家庭教師をしていた家の近くに救世軍婦人士官の宿舎があったので、そこの人々に日本の習慣や礼儀作法を教授しようというものだった。機恵子は、学校時代に薙刀初段の免許状を、卒業後もさらに修行を積み、小笠原流作法の免許を取得していた。

 こうして救世軍での奉仕活動が始まった。奉仕活動を通じて救世軍で働いていた山室軍平と出会う。やがて機恵子も救世軍の集会にしばしば出席するようになり、軍平と会う機会が増え、お互いに親しい間柄になっていった。松本荻江は二人のもっともよい理解者であり、後援者でもあた。

 軍平は岡山県の農家の出身である。高等小学校を終えると上京して印刷工になった時に、キリスト教を知った。同志社創立者の新島襄を慕って京都の同志社に入学し苦学するが、後に上京して救世軍に入隊した。日本で最初の士官となった。岡山孤児院創立者の石井十次と親しく、施設の手伝いをしたこともあり、キリスト教伝道と社会事業に情熱を燃やしていた。

 機恵子にはいくつかの縁談が持ち上がっていた。ところが両親にとっては青天の霹靂、軍平からの求婚である。両親は軍平からの申し込みに驚き心配した。救世軍のよい評判を聞くことがなく、どのような人物かもわからない軍平である。

 兄・皐蔵が東京で軍平に会った。現在の生活は貧しいが優れた人物で有望な青年であるゆえに、「機恵子にとって良縁と存じ候」と、皐蔵は両親に軍平の人柄等を書き送ってきた。明治女学校の校長巌本善治も北海道に講演のために出かける機会があり、両親に面会して救世軍のことや軍平の人となりを懇切に説明し、善治自身もこの婚約に賛意を示した。

 これで両親は安心して結婚に賛成した。機恵子の遠縁に当たるといわれている牧師小原十三司も徳川篤守の4女鈴子と結婚したが、当時は身分の違いは現代感覚では想像しがたい困難な壁があったであろう。機恵子がいくつかの縁談を断ってまで軍平の求婚を受け入れたのは、私心のない誠実さと、仕事への情熱に深い尊敬を抱いたからである。「君ならでたれにか見せん梅の花、色をも香をもしる人ぞしる」の古歌に託して承諾の意志を示した。

 二人は明治32年6月6日、九段坂上の美以(メソジスト)教会堂で結婚式を挙行。介添え役として新婦は巌本善治が、新郎は松本荻江が引き受けた。
 
 式に250〜60人が出席して二人の前途を祝福した。日本の救世軍の最初の結婚式であった。式場で「結婚の約束」7条が読み上げられた。式の費用は案内状いっさいを含めて15円。軍平は救世軍の紋の付いた木綿羽織と小倉の袴を買っただけである。機恵子も結婚前に両親から着物を誂えてもらう時、地味で50歳まで着ることのできる着物を願った。

 式後の懇話会が南神保町の原胤昭の家で約130〜40名で茶菓で行われ、留岡幸助、片山潜、宮崎八百吉らが顔を出した。矢嶋楫子が聖句の石刷り掛け物を、潮田千勢子松本荻江は鼠入らずを祝に贈った。

 神田三崎町の棟割長屋が新婚生活のスタートの場だった。11畳半が二人の生活の場であり、救世軍の伝道所ともなった。集会には100人から詰め掛け、床が抜け落ちるのではないかと心配するほどだった。軍平の給料7円から家賃を3円50銭支払った残りと伝道所からの少々の手当てが生活費のすべてだった。

 生活費が乏しくて薪を買えないために早朝の道路掃除で木屑を拾い集めて、七輪で燃やして煮炊きした。栄養補給に週に一度、牛レバーを買ったが、最初は臭くてのみくだせずに苦労した。

 何不自由ない旧家の長女として育った機恵子には経済的に厳しい生活だったが、この時に限らず、生涯にわたって貧しさに対する不平不満は一度も漏らさなかった。貧しい生活のなかで神に感謝して働く二人に神の恵みは限りなかった。植村正久が結婚祝いとして『福音新報』を2年間無料で寄贈、ある夫人はチラシ寿司を届けた。食尽きていたときに、神はエリヤのもとにカラスをとおして養われたように、神は山室夫妻のもとに一夫人に届け物をさせられたのだった。

 機恵子が闘わなければならなかったのは、物質的な困難よりも自己の精神面における問題のほうであった。母・安子が上京して、機恵子の弟二人の面倒を見るために機恵子の長屋近くに住んでいた。

 軍平の一隊は、毎日タンバリンを叩いて町を行進してキリスト教の説教をしたが、その行進の道筋に母と弟の家があった。機恵子は軍平を尊敬しているが、自分が一隊に加わって行進している姿を母に見られたくなかった。キリスト教伝道を目的としているとはいえ、その姿はさながらチンドン屋のように映ったであろう。

 矛盾した自分の心に機恵子は自責の念で苦しんだ。しかし、やがて、機恵子は葛藤を克服して夫軍平に言った。

  「御容赦なく私を野戦へ入れて下さい。神の為と世の救いの為になら私はどんな事でもいたす覚悟でございます」


 機恵子には強い意志と信仰の力で、文字通り救世軍戦士の妻に成長していく覚悟の誓いであった。信仰によって神中心の生活を潔いものとした。救世軍が二大教理としていた「救いと聖潔(せいけつ)」が与えられたのであった。

 明治33年(1900)、救世軍は廃娼運動に乗り出し、廃業した女性のための婦人救済所「東京婦人ホーム」を築地本願寺前に設けた。機恵子は主任となり、一家はこの二階に移り住んだ。

 廃娼運動のきっかけは「娼妓は前借金の有無にかかわらずいつでも廃業できる」とした明治33年2月の大審院判決であった。同年8月救世軍は機関紙『ときのこえ』を婦人救済号として発刊。矢吹幸太郎大尉ら12人が吉原に入り、機関紙配布を行ったところ、暴漢数十人に襲われ負傷する事件が起こった。世論は遊郭側に批判集中し、一躍、救世軍と自由廃娼運動は世に知られた。

 次いで、救世軍が血であがなった娼妓開放第一号誕生になる事件が起こった。
 州崎遊郭から廃業支援の手紙が救世軍に届いたことからイギリス人のデュース少佐と軍平が楼主に面会に出向いた。その帰途、暴漢数十人に襲われる負傷事件が起こった。

 恰も、日英同盟の実現模索をしていた政府にとって、イギリス人に対する不祥事件はショッキングな出来事である。これを機に公娼規則改正となり、娼妓が自分で警察に届ければ廃業できることとなった。救世軍が流した血による尊い勝利である。

 以来、機恵子の婦人ホームには次々と廃業女性が訪ねては引き取られた。冬の嵐激しい寒い日に単衣物一枚、細紐1本で頭から塩をかけられて足袋裸足のまま州崎遊郭から、あるいは寒中寝衣一枚だけでちぐはぐなぞうりをひっかけて救いを求めて来る女性が後を絶たなかった。

 碌な着物も何一つ持たずに出てきた女性のために、機恵子は自分の着物を次々と与え、とうとうタンスの底をついた。裁縫、読み書き、行儀作法を仕込み、聖書を読み聴かせた。救済所には津田梅子、平野浜子、島田三郎夫人、海老名弾正夫人・みやなどが衣類の差し入れをして機恵子らを支え励ました。

 タスキと前掛けを放さず身軽に働くようにしつけた。それでもまじめに働く者もいれば、堅気の生活に窮屈さを感じて閉口し、古巣を懐かしむ者もいた。炊事当番が当たると仮病を使うもの、夜逃げするものなどで苦労が絶えなかった。

 軍平の伝道旅行で不在中のある日、吉原の娼妓から廃業支援の手紙が届いた。機恵子は一人で吉原に乗り込み、警察に護衛されて送り返された。婦人ホームは遊郭の業者には仇敵だったことから軍平や機恵子の外出時には警察が護衛することがしばしばだった。

 が、怯むことなく救済事業に全生活をかけた。3年半、責任者として働いたが、健康を害し、子どもも二人になったのでしばらくホームを休むことにした。が、機恵子の精神は救世軍によって東京や大阪で引き続けられていった。

 明治38年(1905)秋、東北地方に連日雨が降り続き、大凶作となった。とりわけ凶作のひどい岩手、宮城、福島の3県に人買いが入り込み、僅かな金で娘を連れ去り、機械工場や料亭に売り飛ばした。救世軍はこの惨状を見て、東北凶作地子女救護運動をおこし、3県の子女で人買いの手に落ちそうな者を探し出して東京に送り、就職先の斡旋、一時保護などをおこなうために、機恵子は再度女中寄宿舎の責任者となった。

 一家を挙げて女中寄宿舎に移り住んだ。シラミがわき、トラコーマで目の赤いものが多数いた。この娘たちに身なりを整え、行儀作法を教え込む忙しい生活の中、3人の子どもの世話が思うようにならず、7ヶ月の次男・襄次が入院、夭折。父母の仕事の犠牲となった。明治39年春まで女中寄宿舎に収容した人数は156人にのぼった。

 このほか、救世軍は、出獄人のために救世軍出獄人保護所「労作館」を運営している。
 明治17年に北海道空知集治監で無期徒刑のうえ有期徒刑14年6ヶ月の刑を言い渡されていた亀水松太郎が獄舎で入信し、模範囚人に変わった。ついで恩赦で出獄できた。

 そのとき、労作館で昼間働き夜は救世軍小隊で救いの証をしていた。亀水松太郎は明治44年ごろにフリーメソジスト教会の河辺貞吉牧師を知り、やがて神学校で7年間の学びを終えて日本橋教会の副牧師として赴任、のち阿倍野に望の門教会(現在の阿倍野教会)を開拓創設した。

 それらの運動も一段落したころ、山室一家は本郷にできた救世軍の女子学生寄宿舎に住み、機恵子は女子学生の指導にあたった。これは、半年間程だったが、とかく男子中心の活動に傾きがちな救世軍のあり方への反省として行った事業であった。

 救世軍は明治45年(1912)、東京下谷に病院を開設。下層階級に猛威をふるう結核の実情が明らかとなり、救世軍の父W.ブース大将を記念として結核療養所を建設することとなった。

 機恵子は1,000人の紳士名簿を作成、一人10円の寄付を依頼することにした。子どもの手を引いて一日に10軒も訪問することもあったが、はかばかしい成果を得られなかった。

 婦人層に訴えることにした。理由は、当時は男子よりも女子の結核患者がはるかに多かったので、家族の病気により婦人の負担増になるため結核撲滅は婦人の問題でもあった。

 婦人後援会の趣意書に鳩山春子新渡戸マリ子徳富静子野口幽香子矢嶋楫子ら27名が名を連ね、津田梅子は事務所を引き受けた。機恵子は膨大な事務処理と外出に追われた。徐々に大口寄付者も現れ、救世軍の手によるわが国最初の結核療養所の第一期工事が大正5年11月完成した。

 しかし、残念なことに機恵子は開設を見ることなく、その年の7月12日、長年の過労による腎臓炎から急性脳膜炎併発により病没した。数え年43歳。軍平と生後10日目の使徒、4歳の善子、6歳の光子、8歳の周平、10歳の友子、15歳の武甫、そして17歳の民子の7人の子どもが残された。

 葬儀には1,200人もの参列者があった。救世軍の制服を一度も新調することなく神と人に仕えた救世軍の母・機恵子にこの世での別れを惜しみ、召天した機恵子を国籍の天へ送った。

 夫・山室軍平山室民子山室武甫ら遺児は、後年、機恵子についての書を出版した。
  ★山室軍平『山室機恵子』救世軍出版及供給部、大正5年
  ★山室軍平『山室機恵子』選集8巻、山室軍平選集刊行会、昭和28年<上記が原本>
  ★山室民子『母を語る』日本基督教団出版部、昭和36年
  ★山室武甫『山室軍平にふさわしき妻機恵子』玉川大学出版部、昭和42年

 大隈重信は、機恵子の死を聞き、「えらい女であった。夫婦共稼ぎして社会公共にために尽くしておったのに惜しいことをした」と漏らした。大隈重信は救世軍の活動は初期段階から何かにつけて同情的に支援を惜しまなかった。

 翌6年、救世軍療養所内に機恵子記念会堂が建てられた。

 明治時代を献身の道一筋に43年を武士道的キリスト教信仰をもって貫いた。家庭の一主婦が、死後、多くの人々の筆になることとくに家族の執筆は珍しいことだ。

 また、感動を与え共鳴者を増やしている事例も機恵子の場合は秀でている。まさに、棺を閉じて、生前以上の高い評価を受け続けている機恵子の生涯であった。

佐藤輔子 佐藤昌介(北海道大学総長)の妹。明治女学校在学中に教師であった島崎藤村と許婚者鹿内の間に身を置いて苦悶しつつ鹿内に嫁いだ。が、悲しい死を迎えた。鹿内の後妻として津田梅子の末妹まり子が嫁いだが、離縁している。こうした経緯を、相馬黒光が『黙移』で述べている。
小原十三司 明治23年(1890)生まれ。青森電信養成所を終えて勤務していたが、中田重治の説教を聴いて政令のバプテスマを経験後、聖書学院に入学して牧師となる。東洋宣教会日本ホーリネス教会監督局会計などを経て、昭和17年(1942)のホーリネス教会弾圧事件に際して2年間の拘置生活を送った。戦後、淀橋教会を復興させ、昭和31年度(1931)の出席者を373名という大教会を形成。
出典 『山室機恵子』 『機恵子』 『富士見町教会百年』 『キリスト教歴史』 『矯風会百年史』 『女性人名』
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