撮影年月日不詳   写真の裏面に次の文が残されている。 
    
   何事をも思ひ煩ふな  曜毎に祈り越なし
   願をなし感謝して    汝等の求め越
   神に告げよ
 亀水 松太郎     文久元年(1861)〜昭和11年(1936)1月16日
 ナザレン教会牧師。

《生い立ち》
 讃岐高松城下今新町の旧家・亀水家は、門前に瀬戸物の大きな亀を置いていたので、通る人々の目を引き、だれとなく亀屋と呼ぶようになった。やがて一般庶民に姓を名乗ることができる時代が到来したとき、亀水とした。そこに文久元年、長男が誕生した。両親は、松太郎と名づけた。松太郎のほかに2人の妹と1人の弟が生まれた。

 先祖のなかには寺子屋を開業していたものもいたが、松太郎の父は、指物師で、その組頭を務めていた。律儀で誠実な働き者であった。母は呉服反物を商っていた。6間の間口を二つに仕切り、両親がそれぞれに店を構えていた。

 明治6年(1873)、松太郎は12歳になった。幼少時から読み書き算盤は大人顔負けの上達振りだった。天才児のほまれが高い松太郎は、塾通いよりも、母の店の呉服商に興味をもち、お伴を二人ほど連れて商売に出た。
 
 明治9年ごろ、一人で商売に出かけ、人々から羨ましがられていた。少年の商人を見くびって値切ったりからかったりすると算盤をさっと出して、はじいて値段を割り出し、納得させずにはおかなかった。腰から矢立を取り出して大福帳に書き込むさまは誰が見ても大番頭であった。

 多くのおかみさんたちは、松太郎の歯切れよい口八丁、手八丁のさまに引かれて一もなく二もなく買いもし金も出した。そうなると、だんだん松太郎は商売の終わりかける夕方になると、長尾あたりの料理屋へ上がりこみ、若旦那、若旦那ともてはやされ、いい気分になって昼間の重い財布を宵に軽くして帰るようになった。

 お人好しの母は、松太郎が客に貸してきた、なかなか売り上げが集まらずに困ったといえば、それを簡単に信じ、何も疑うことが無かった。月末には問屋の催促を受けるが、問屋には息子の名義で借りることができた。商売上手な息子ならばすぐに支払ってもらえると考えた問屋も両親も、まだ事情のわからぬままだったのだ。これが小さなほころびを大きくする結果となった。

 師走になり、貸してきてあることになっている売上金を何とかしなくてはならない。松太郎はせっかくの集金袋を落とした、と両親に嘘をついた。翌朝、母は松太郎の歩いた道を辿って何の得るもののないまま家路について料理町まで帰ってきたとき、知合いの料理屋の娘が、実際はあちらこちらの女衆に商品の高い鹿の子、ちりめんなどをやったり、料理屋で遊んでいたことを知った。

 事情がわかった問屋からは品物を見限られ、両親の眉間の皺が増え、家計は傾いていった。とうとう、松太郎はかねて習い覚えた将棋で賭けごとをして稼ごうと目論んだが、近くでは相手にしてくれるものがいなかった。遠方まで出向いて、家屋敷まで賭けの抵当にした。しかし、先祖伝来の骨董品は言うに及ばず金目のものは博打で消えてなくなり、身包みはがされた格好で家路にたどり着いた。

 そこへ将棋仲間の若松利助が綿入れ半纏をくれた。これを着て、親にも言わずに京都で車夫をしている伯父を頼って厄介になり、車夫になった。なかなか客が来ない冬のある日、急ぎの青年を停車場まで乗せた。青年が車中忘れ物をしたことを知ったが、素知らぬ顔をして人気のいない場所まで行って、そっと中身を見ると、弁当2つ、反物2反ほど、さらに丸めてある新聞紙を開ければ120円が包まれていた。

 すっかり気を良くした松太郎は弁当と反物を伯母に与え、懐に120円をしまって京都を去った。当時は、現代のように電信や電話の情報が未発達であったことから彼は平然として大阪の松島遊郭に姿を現して芸娼と戯れて、何食わぬ顔をして親元に帰った。綿入れの差し入れをしてくれた若松利助には金3円のお礼をして、大いに男ぶりの発揮した。
 客の忘れた120円に関しては、『恩寵の奇跡』に収められている大屋左一のあかしでは、40円とある。

《泥棒の始まり》
 家に舞い戻った松太郎は昼といわず夜も松島遊郭の遊びを繰り返し、瞬く間に無一文になった。遊郭からは誘いの文が届く。松太郎に金を貸す真面目な人は周囲にいなくなった。心がすさみ、悪事を働かせる知恵だけが沸いてきた。盗んだ品物を売買する「買巣」をして前科を重ねている元木伊三郎を介して徳島監獄に7年間入獄していた窃盗犯罪者・福西の仲間入りをして、一通りの手ほどきを受けて早速仕事にかかった。

 数回の経験から度胸がつき、19歳か20歳のころ、1人で稼ぎに出かけて金利品を背に負いながら逃げ帰ろうとしていると、パッと横合いから巡査が合燈を照らす、ぎょっとしたが、そこは田んぼの真ん中。狸や狐に騙されからかわれたのかと隠れ家にたどり着いた。その夜は眠れなかった。ウトウトしかけると寂しそうにしている父の姿が浮かんでくる。翌朝、こっそり自宅に戻ると、父の葬儀で親戚縁者が集まっていた。

 明治16年(1883)22歳になった松太郎はますます強盗稼業に励んだ。正月を迎えて間もないころ、古三津の義光寺はなかなかの金持ちだといううわさを聞きつけ、そこを襲うことにした。たまたま知り合った佐々木清治の母がその寺に雇われていることを知り、清治を通して手引を頼んだ。首尾よく金銭衣類を強奪して、隠れ家にしている大可賀のお柳の家に舞い戻った。

 清治は身の危険を感じて大可賀を去った。残った松太郎も別れを告げて去ろうとしたところ、人妻のお柳が一緒に行きたいとのことでふたりで五後島に渡り、広島へ逃げる算段をしていた。

 ところが、清治は逃げるとき、前の晩に拾った博多帯を質に入れた。これから足がつき警察に捕まった。そのとき、松太郎がやったんだと、一切合財を白状したので、五後島は警察に取り囲まれて、松山未決監につながれる身となった。

《獄中生活》
 監獄の中は4畳半一室に7〜8人、多いときには12,3人が詰め込まれる。部屋の入り口の板間は、各自の詰桶が置いてある。人数分だけ臭い、汚い。混み合うと立錐の余地がないときもあるほどだ。八百万の神に早く出して欲しいと願わずにはおれない。松太郎は正月に入獄して夏を迎えた。

 あるとき重罪囚4名がヒソヒソ話をしていた。重罪囚は胸にガンジガラメに縄がかけられ、手は後にまわされた状態であるが、取調べのときは手錠がはずされた。さて、調が終わり本縄をかけようとしたとき、重罪囚4名がいっせいに役人めがけて詰桶を投げるが早いか門外へ駆け出した。松太郎も逃げた。が、結局、二日間の逃走で得たものは危険、空腹、疲労、不眠、困憊、恥辱だった。14年6ヶ月の刑に処せられることになり、北海道送りとなった。

 北海道で生きて帰ることができない、と同囚のものらが語り合っていた。またもや集団脱走を試み、うまくいったのであるが、逃走後2ヶ月で宇和島監獄へ護送された。

《空知集治監》
 翌明治17年(1884)には前刑の上に、さらに10年6ヶ月の重刑を言い渡される身となり、9月には北海道の空知集治監へと護送された。

 空知集治監では開墾事業のために外役が与えられ、毎日、伐採に明け暮れた。四国の暖かなところで過ごした松太郎にとっての初めての厳冬を迎える。外役中は零下32,3度であり、火も燃えない状態で昼食である。凍った飯を片手に、味噌と漬物を片手に食事をするのである。それでも食べなければ生きていかれない。

 明治19年(1886)札幌裁判所で、無期徒刑のうえ14年6ヶ月の有期徒刑を言い渡された。もはや、空知集治監から出ることは絶望的となった。

《キリスト教に出会う》
 明治26年7月のある日、同囚のものたちが一枚の絵を眺めていた。裸で十字架上の男の絵に松太郎は自分よりも悪党がいるものだと思った。ところが、絵を見ていた一人が贖主・キリストであることを説明してくれ、はじめてキリスト教を知った。聖書を読み、祈ることを覚えた。それ以来、松太郎は酒が好きで、こっそり盗み飲みをしていたがきっぱりとやめた。

 この集治監では、1,000人程度が「幌内炭坑」で2交代12時間労働の採炭労働に使われた。明治16年には、51名死亡、7名が逃走により斬殺、明治17年には、重軽傷157名、57名死亡、6名が逃走により斬殺された。

 明治28年(1895)12月、炭鉱にて奇跡的に救われるなど、外役中に命拾いした経験などから松太郎はいよいよ熱心に聖書を深く研究するようになった。しかし聖書についての適切な解説者がいなかった。当時の教誨師・留岡幸助は明治25年に就任したが、明治27年(1894)に留学のために仏僧が教誨師に代わっていた。

 あるとき、熱心な妻の信仰によって感化されクリスチャンになったという看守長・原田正之助が松太郎を控所に招いた。クリスチャンになって心がまったく改まり、新しい生涯に入って、身は獄中であるが、心は天国の喜びに満ちて、一生懸命に服役していると聞いているが、きょうは信仰上の経験を話して欲しい、と原田は松太郎に語りかけた。

 そして、聖書のわかる、わからないは世の知識や学問によるものではない。神様に祈るならば、神様がきっと聖霊により、みことばの深い意味をも悟らせてくださるから、熱心に祈りつつ聖書を学びなさい、と松太郎を慰め、励ました。

 松太郎が空知集治監に入監していた時期に好地由太郎も在監中で刑に服していた。しかも、クリスチャンの看守長・原田正之助がいた。好地由太郎の自伝『恩寵の生涯』によると、同房から伝道者に献身したものがいる、と記述されているが、松太郎のことであろうと思われる。

《母へ手紙》
 松太郎は心が穏やかになるにつれ、故郷の母親のことが気になって、獄内で蓄えたいくらかを添えて手紙を出した。死んだものと諦めて位牌まで用意していたという母は、、監獄で苦労して蓄えたお金だから神棚に供えてあると、悔い改めた息子の身の上を心配する愛情溢れる返信だった。

 具体的な母の愛情溢れる手紙による励ましは松太郎の獄内での生活を改めさせる大きな支えになったであろう。そして、神の愛とキリスト・イエスの忍耐が身に沁みて、いっそう祈りを熱くし、聖書研究に励んだであろう。松太郎は折に触れて母が死ぬまでの8年間、送金した。明治36年(1903)、松太郎が42歳になった年、母は死去した。

 明治30年 英照皇太后の崩御について、一同が食堂(全員が集合する場所)で知らされ、続いて特赦について聞かされた。松太郎は、刑2等の減刑を受ける恩赦があり、無期徒刑が15年、有期徒刑が10年8ヶ月となり、42年には放免されるという恩典に浴すこととなった。死んだのちもなお14年6ヶ月の刑が残っている松太郎は、神に感謝せずにおれなかった。

 炭鉱内での奇跡的な出来事から自分は神のためにこの身をささげたいという思いを松太郎は強め、祈りと聖書研究に熱が入り、同囚のなかに福音を語り合い、証しをするときなどをもった。しかし、キリスト教嫌いの囚人もいたので、彼らは上司に告訴することがあった。そのため、係から尋問を受けることもあった。時には真冬に裸足で雪の中に立たされたこともあった。だが、松太郎は試練や迫害にへこたれることはなかった。

 明治34年(1901)になると、炭鉱はあまりにも危険が多すぎるとのことで、幌内の監獄は廃監となった。役人をはじめ300名余りの囚人が十勝監獄に移された。

 北海道開拓は、囚人による開拓に負っていたことは、大方の知ることであろうが、具体的には次の 資料が当時の過酷さを示している。

(2)空知集治監 
 空知集治監は、樺戸集治監についで1882年(明治15年)6月に三笠に設置された。1890年(明治23年)には3248人を収容した。加波山事件の河野広体外、板垣退助を刺した相原尚聚など、自由民権運動に関連する政治犯が北海道の3つの集治監のうちで最も多く収容されていた。
 この集治監では、1000人程度が「幌内炭坑」で2交代12時間労働の採炭労働に使われた。明治16年には、51名死亡、7名が逃走により斬殺、明治17年には、重軽傷157名、57名死亡、6名が逃走により斬殺された。
 炭坑内でガスの恐れがでると囚人を穴に吊し、ガスの有無を調べたという。当然のことながら、実験に使われた囚人は、ガスがでていた場合は死亡するか痴呆状態になった。ガス爆発(明治17年から5年間で10回)、落盤事故も多かった。
 囚人の炭坑での使役については、次第に批判が高まり、明治27年末に中止になった。
 この集治監は何度か名称を変更し、1901年に廃止になったが、それまでに計1067人の囚人が命を落とした。


 十勝監獄では、松太郎は囚人たちが使用するすべての機器管理をする機器夫に選ばれた。これは看守の受持ちであるが、信用されている囚人に与えた。しかし、なかには囚人に責任ある約を与えることに不賛成の看守もいたが、幌内時代から彼の信仰を励まし続けてきたクリスチャンの吉野看守長は、亀水を機器夫にして、針一本でもなくした場合には自分が切腹すると、周囲を納得させた。松太郎は十勝に移送されてから、河田造、坂本某、石川仙次郎の3人を救いに導いた。そして仏教の僧侶に代わってキリスト教の教誨師の着任を待ち望んだ。

 典獄の異動が行われ、陸軍大佐・黒木鯤太郎が十勝監獄の典獄として就任し、その挨拶で全囚人に向かってよきサマリア人のたとえを引用して隣人愛を説いた。そして、みな生まれや環境、顔は異なっていても神の前ではみな兄弟である。だから互いに愛し合い、強いものは弱いものをいたわり助けるようにと結んだ。次の日曜日には「艱難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出し、そして希望は失望に終わることがない」と聖句を引用して、だから艱難の中に置かれている現状であっても忍び通すときに、彼岸に光明は輝くのだと、激励した。

《獄中における聖書研究会》
 松太郎は黒木典獄の勧告に神をたたえ、感謝した。その後、数日後讃美歌が聞こえてくる。尋ねると、新任の臼井看守が未成年者相手にキリスト教教育をしている、と聞かされた。しかも、臼井看守はある教会の牧師であったが、看守となったとのことだった。さっそく臼井看守に面会を求めて、自分たちのために聖書研究会を開催して欲しいと申し入れた。

 黒木鯤太郎については、その後、青森監獄の典獄として、次の批判が見出される。
 面目躍如たる話がある。一九○九(明治四十二)年、山田は県の統計を見ていて青森監獄の死亡者が前年の倍になっていることに気付いた。調査を始めると、典獄(刑務所長)黒木鯤太郎の乱脈な私生活や極端な囚人取り扱いが明るみに出た。山田は人道の立場から一年余りにわたって筆陣を張り、青森監獄の非道を批判、ついに弁護士会、司法省を動かした。

坂本直寛牧師》
 ともあれ、松太郎たちの願いがかない、キリスト教の集会がもたれ、最初は13名、次に15名、と徐々に出席者が増え、時には講堂に入りきれないほどになった。こうした状況が外部にも知られるようになり、宣教師、牧師、伝道師たちが次第に監獄訪問をしてキリスト教の集会がもたれるようになった。ことのほか、坂本竜馬の甥にあたる権平の養子・坂本直寛牧師は一月に2度も來教するという熱心さだった。

 明治40年4月、坂本牧師による滅び行く霊魂を思う情のあまり涙に咽び神に祈りかつ語った説教により、軍服姿の典獄もまた涙を流して祈り、集まっていた1,000人余りの囚人の四方からも悔い改めのあかしや祈りが起こった。この霊的な勢いは囚人だけに留まらず役人たちの間ににも信仰を持つもの、その役人たちから十勝市内の教会へとキリストによる霊の火は燃え広がった。

 獄中における霊火の勢いが強まる一方、松太郎の心は己の醜さに苦しまない日がなかった。坂本牧師に悩みを訴えると、聖霊を頂いて真剣に祈れ。心が潔められさえすれば一切の悪の性質が取り除かれる、と松太郎を諭した。即座に坂本牧師の勧告通りにはならなかったが、神の前にひざまずいて罪を懺悔し、ひたすら祈った。

 松太郎は獄内における善行賞が3個になった。3個になると、看守の監視がなく、獄中でも庭先でも自由に歩くことができ、食事も1個と2個では異なるが、3個になるとほとんど役人並のご馳走が配給された。松太郎は獄内で信用される囚人に新生して過ごした。

 ある夏、200名ほどの善行賞をつけた囚人とともに建築のために利別へ出張を命じられ、天幕の仮監房に2,30名の看守と過ごすだけの自由な生活もあった。午前3時ころから午後9時までの労働が終わると、30名ほどで毎晩のように聖書を持ち寄り祈りのときをもって夜の11時ごろまで過ごすことができた。

《釈放》
 明治42年(1909)8月31日、放免の日となった。
 伊藤部長に伴われて出獄し、部長宅で2泊して市内見物をした後、東京を目指して汽車に乗った。夕方になり車中が明るくなったのには驚かされた。27年間の獄中生活で世の中が変化しており、何もかも珍しかった。

 東京へ到着すると、救世軍の出獄人保護所であった労作館に入館し、昼は労作、夜は小隊に伴われて路傍伝道のあかしをした。明治43年ごろに、四国の新居浜の組合教会に出席し、講義所にも出かけてあかしする機会が与えられた。やがて、習字の塾を開いて自活の道を見出した。

《河辺貞吉牧師》   
 明治44年ごろに、フリーメソジスト教会の河辺貞吉牧師を知り、悲田院の神学校に7年間学び、大正6年(1917)ごろに日本橋教会の副牧師に任命され、15円を支給された。

《牧師となる》
 大正13年(1921)、フリーメソジスト教会を辞職して、阿倍野に望の門教会(現在の阿倍野教会)を開拓した。昭和2、3年になると、大道4丁目に伝道館を開いて多くの人々を信仰に導いた。この伝道館は、現在の大道教会の前身である。その後は、ナザレン教会に加入して生涯をキリスト・イエスの僕として忠実に神に仕え、昭和11年(1936)1月16日、75年間の地上における生涯を終えて召天した。
 開催年は不詳であるが、東京本郷のナザレン教会特別伝道集会が開催されたときの 写真が残っている。場所撮影年不詳であるが、特別伝道集会の時の記念写真が、もう一枚ある。大阪寝屋川あたりのものかもしれない。

《献身者・宇崎竹三郎》
 出獄後の松太郎のあかしによって入信するもののなかから献身者も出た。そのうちのひとりが自由メソジスト教団牧師・宇崎竹三郎である。『恩寵の奇跡』を、彼の召天50年を記念して大道教会が中心となって出版した。

出 典 『恩寵の奇跡』 『恩寵の生涯』 『キリスト教歴史』
http://www.toonippo.co.jp/l-rensai/gunzo/gunzo066.html
http://www.asahi-net.or.jp/~XJ6T-TKD/tonden/rekishi.html
http://park18.wakwak.com/~estel/ryo-ai.html/aikame.jpg
(画像提供先:エステル