自由民権運動に挺身したキリスト者。明治期のキリスト教会牧師。
《生い立ち》
土佐国(高知県)安芸郡安田村に父・高松順蔵、母・千鶴の次男として生まれた。幼名は習吉。母は、坂本竜馬の長姉に当たる。17歳のとき伯父・坂本権平の養子となり、南海男と名乗った。千鶴の妹・乙女は、岡上菊栄の母であるから、直寛と菊栄はいとこ同士であり、竜馬は叔父にあたる。坂本家の家系図は、坂本家の人々に詳しい。
直寛は立志学舎を経て、上京し、スペンサー(Spencer,Herbert 1820-1903)やミル(Mill,John Stuart 1806-1873)などの原書をひもとき、自由民権を高唱、雄弁家として名をはせた。坂本南海、才谷梅次郎の筆名で『南海新誌』や『土陽雑誌』に健筆を奮った。植木枝盛らとともに土佐の自由民権運動を推進した。
明治17年(1884)に、これまでの”南海男”から”直寛”と改めた。一般には「ちょっかん」と称されていた。
《受洗》
明治18年(1885)5月15日、G.W.ノックス、植村正久らによる高知伝道に際して、片岡健吉や武市安哉そして西森拙三とともにノックスから高知教会で受洗した。同日が日本基督教団高知教会の設立した日とされ、当初の信徒は21名だった。
明治20年(1887)、三大建白事件運動の総代のひとりとして上京したものの、ただちに保安条例に触れて石川島の獄に片岡健吉らとともに収容された。獄中生活が信仰の深化を促し、転機となった。また、この体験は、のちに監獄伝道に無関係でもなさそうだ。
ともあれ、板垣退助は、直寛を国会議員たるべき資格のある人物として片岡健吉や植木枝盛ら5人のうちの一人として評価し、選挙演説を行った。なお、直寛の妻・つるゐは、片岡健吉の妻・美遊らとともに植木枝盛の指導のもとに高知県で最初の婦人会「婦人交際会」を結成したときのメンバーのひとりであった。
明治27年(1894)浪花伝道義会の嘱託として各地を巡回伝道を始めた。
《北海道開拓》
北海道北見においては、30年(1897)北海道北見のクネップ原野で 北光社農場を経営することとなった。この北光社は、直寛が中心となって組織的に運営された。そこで栽培したハッカは、質のよいハッカとして地域の産業を興しただけではなく、近江におけるヴォーリスの経営する近江兄弟社メンターム原料として用いられたのではないかという興味深い記事が『北海道人』に掲載されている。
《献身》
明治35年(1902)伝道界への献身を決意して、旭川日本基督教会に赴任して、2年後の明治37年(1904)按手礼を受けた。その後は、軍人伝道や監獄伝道に当たった。現在の日本キリスト教会「北見教会」は、直寛の率いる北光社によって始められた教会である。
《刑務所伝道》
十勝監獄では、直寛の教誨師としての働きから火がついてリバイバルが起きた。
とりわけ、熱心に監獄伝道をした直寛は、明治40年4月、滅び行く霊魂を思う情のあまり涙に咽び神に祈りかつ語った説教により、軍服姿の典獄もまた涙を流して祈り、集まっていた1,000人余りの囚人の四方からも悔い改めのあかしや祈りが起こった。この霊的な勢いは囚人だけに留まらず役人たちの間ににも信仰を持つもの、その役人たちから十勝市内の教会へとキリストによる霊の火は燃え広がった。
亀水松太郎は、その在監中にキリスト教を知り、直寛から信仰の手ほどきを受け、確実な信仰へと導かれた囚人のひとりである。模範囚として出獄した松太郎は、河辺貞吉の導きを得て神学校で7年間の学びの後に牧師となった。
獄中における霊火の勢いが強まる一方、亀水松太郎の心は己の醜さに苦しまない日がなかった。坂本牧師に悩みを訴えると、聖霊を頂いて真剣に祈れ。心が潔められさえすれば一切のあくの性質が取り除かれる、と松太郎を諭した。即座に坂本牧師の勧告通りにはならなかったが、神の前にひざまずいて罪を懺悔し、ひたすら祈った。それほど、純粋な直寛であったとも言えよう。
明治42年(1909)、札幌の北辰教会(現在の札幌北一条教会)を牧した。その後、朝鮮の龍山、そして函館での伝道を企図したが、札幌で明治44年に死去した。
<やりかけ>
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