明治〜昭和期の社会事業家。博愛園初代園母
<生い立ち>
高知藩藩主山内家に仕えた8代目御典医岡上新甫(樹庵)の長女として、高知城下で生まれた。
菊栄の母は、坂本竜馬の末姉・乙女である。しかし、乳母の公文婦喜だという異説もある。北海道に渡り北光社農場を経営し、かつキリスト教牧師として活躍した民権家坂本直寛の母は坂本竜馬の長姉・千鶴であるから、直寛と菊栄はいとこ同士であり、竜馬は叔父にあたる。ちなみに父「樹庵」は敬虔な隠れキリシタンであり、「樹庵」の呼び名はポルトガル語のJOANに由来している。これは、キリスト・イエスの弟子ヨハネを指す。
菊栄が生後2ヶ月の乳児のときに両親が離婚したために、岡上家と同じ町内(高知市本丁筋2丁目)にあった坂本家に母と共に戻った。
父の樹庵は明治4年(1871)7月3日、56歳で死没した。その年の正月には菊栄の兄・赦太郎が疫痢で亡くなっているため、岡上家には女ばかりが残った。高齢の姑・霜、乳母・婦喜、菊栄の3人、そして明治3年に婦喜が樹庵との間にもうけた政江が残された。政江は、後年、直寛が関わった北海道の浦臼開拓民となった藤田卯之助の妻として生涯を送った。
菊栄は9歳で香美群山北村で農業を営むかたわら地下医師をつとめていた樹庵の兄藤田篤治の家に預けられた。
14歳で、高知英和女学校に入学したが、学費が続かなかったため半年ほどで退学した。 高知英和女学校は、板垣退助の娘・猿子や吉松ます(植木枝盛と交流のあった婦人解放運動家)らが通った女学校である。
明治22年(1889)小学校教師になり、20年間教育に尽くした。その間、二男三女、5人の子どもに恵まれた。
同43年(1910)高知事前協会に向かえられ、同協会の経営する孤児収容施設博愛園の園母、園長となった。
昭和22年(1947)4月に退職した。
80歳で死没。
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