好地 由太郎      慶応元年(1865)5月15日〜?
   巡回伝道師。

《生い立ち》
 好地由太郎は、慶応元年(1865)5月15日に上総国君津郡金田村に、大村八平の三男として生まれた。由太郎のほかに上に兄が2人、姉が1人いた。祖父母の代まではある程度の資産があり、使用人を雇って海産物行を営んでいたが、明治期の初年ごろから毎年の不漁続きに加えて種々の災難が重なり田畑、家屋敷が人手に渡る有様となった。

 とうとう明治7年(1874)、父・八平は兄と姉を連れて他所へ去り、母と由太郎だけが住む家も無く、小さな物置同然の小屋で雨露を凌いでいた。だが、10歳のときに母親と死別し、同じ村の農家に父親の借財の質として引き取られ家畜以下の半奴隷の扱いを受け、4年間を過ごした。

《姉夫婦と養子縁組》
 14歳のとき、上京して父を捜し求めた。父は、荷物船を所有して東京・横浜間の回漕業を営んでいたので、その手伝いをした。ほどなく実姉・つるの居所もわかったので、姉の家に同居することになった。姉の夫で新聞記者・好地重兵衛(芝教会役員)の養子となった。新しく母となったつるは嘉永5年(1852)9月11日生まれで、大村八平の長女である。

《泥棒の始まり》
 ほどなく、神田の増田商店に奉公人として住み込んだ。4年間は忠実に勤めた。だが、貯蓄が増え出すとともに悪友もでき、放蕩を覚え、店の金を持ち逃げして、事の露にならない前にと逃げ出した。

 18歳のときだった。明治15年(1882)7月に日本橋区蛎殻町の店に雇われたが、10日の夜、女主人を強姦・放火・殺人の罪を犯した。鍛冶橋の監獄に送られ、謀殺犯として3年間を監房で過ごした。やがて、監房の頭(取締)となり、牢名主となって、房内の囚徒全体の取締役に任じられるようになった。

《青年ステパノに出会う》
 明治16年(1883)4月12日ごろ、22,3歳くらいのの青年が入獄してきた。由太郎は、さっそく頭として青年に「娑婆で何の悪事を働いたか」と問えば、「何事もしていません」との対応に、、監房のものたちと一緒に立腹して青年を袋叩きにした。ところが、青年は豪傑ぞろいの囚人に抑えられながらも「わたくしはここで殺されても天国に参りますが、ここにいる方々は神を信ぜぬ罪人です。どうか、この方々の罪を許してください」と小さな泣き声を出した。実は、泣き声は祈りであったのだが、当時の由太郎にはわからなかった。

 騒ぎを知った看守は青年を他の房へ移そうとして引き立てた。由太郎は不思議な心騒ぎがして、引き立てられていく青年の袖を捕まえ「どうすれば君のような心になれるのか、教えてくれ」と熱心に問うたところ、青年は戸口でたった一言「耶蘇教の聖書をお読みなされ」と答えて去った。そのとき由太郎には、聖書に出てくるステパノが石をもって殺されそうになりながらも、殺そうとしている群衆のために神にとりなしの祈りを捧げた姿を青年に見出すことなどできる由も無かった。

 青年は、路傍伝道で耶蘇教(キリスト教)について語っているときに巡査の命令に服さなかったために官吏侮辱の違警罪で投獄された。取扱上の手落ちで重罪犯の監房に入れられた。入房して出て行くまで20〜30分間の出来事であった。神の摂理は、人知を遥かに超えている。本人はもとより誰の目にも心にも、このとき由太郎がのちに監獄巡回の伝道師になるとは想像だにしていなかった。

《聖書の差し入れ》
 それからというもの由太郎は耶蘇教の聖書を入手したいと願っていた。そこへ、実姉で養母のつるが見舞いに来た。由太郎が聖書の差し入れを願ったことに非常な喜びで、芝路月町講義所の安川享牧師を経由して旧新約揃った聖書を贈り物として入手可能となった。当時は、聖書を差し入れることは簡単な事ではなかったがつるや安川牧師の熱心な運動で特別な計らいを受けた。

 聖書によってキリスト教の信仰心をもつというよりは、青年が大勢の袋叩きに遭いながらも泰然自若にしていた不思議な力の源が聖書にあると思っただけであった。魔術的な力を得て破獄を成し遂げようとの野心で、つまりはバテレンの魔法の書として聖書を手にしたのであった。しかし、悲しいかな文字の読めない由太郎は自力で聖書を読むことは困難であった。

 同房の桜井に代読してもらうと、由太郎が考えていたこととはまったく異なり、聖書は罪を悔い改めて正しい道を歩めと教えていることを知った。せっかく大喜びして母・つるが牧師・安川享を通して差し入れてくれた聖書であり、とりわけ、つるは「父と母はともにキリストを信じてお前のために日夜神に祈っているから、この聖書を母の片身と思って大切にしてくれ」と涙を流したにもかかわらず、その恩はどこへやら聖書もいつしかお官(かみ)預かりとなってしまった。

 両親は芝教会の教会員として、とくに父・重太郎は役員として教会生活を送り、明治21年(1888)に天国に召された。それに引き換え、由太郎は、神無くキリストなく望みも無く、ただ同監者とともに日一日と死刑の宣告に近づきつつあった。やがて由太郎の公判日が到来したとき、重罪公判の法廷から逃走を試みた。が監獄に連れ戻された。

 明治17年(1884)3月、判決が出て、本来ならば死刑のところを未成年のため無期懲役に処せられた。死刑を免れたことに喜び、再度、脱獄を試みるなどしたため監獄も東京集治監から明治18年には宮城県の集治監へと移った。このころ、悪事をするだけが人間の本能ではあるまいと思うようになり、なにか善いことをしようと、骨身を惜しまずに働いた。

 模範囚として役人からも信用される房内の生活を2年ほど送ったが、丸森という外役所にいた明治20年の初春だったが、風聞によると近々北海道へ流されることが決まったという情報を得た。すると再び心が騒ぎ、逃走した。宇都宮まで逃げてきて、ちょっとした縁故で汁粉屋に雇われた。しかし、店主の使いで出かけた先が警察署であった。つけ勘定の借りも含めて代金を受け取ったのを幸いにして東京方面に逃げ去った。

 東京は警察の手が厳しくて親兄弟に合うゆとりも無く、神奈川方面へ逃げた。外国へ逃走しようと試み、まず資金を得るために高島山の商家を襲ったところで逮捕され、神奈川警察の分署に引き渡された。取調べの最初は高島山のことだけであったが、巡査部長として監房を見回りに来た元鍛冶橋監獄の看守に見破られて、過去が一切暴露された。戸部監獄署へ送り込まれ、思い鉄玉を両足に付けられ、出入とも厳重な見張りのもとに置かれた。

《空知集治監》
 それでも懲りずに何度も脱走を試みた。裁判の結果、9ヵ年の重刑を加えられて東京の小菅集治監に、さらに北海道へ護送の身となった。明治20年11月、由太郎の23歳のときだった。

 明治20年(1887)1月、北海道の空知集治監に送られた。東京の鍛冶屋橋監獄にいたとき、実姉で養母のつるが安川享によって差し入れられた聖書を捨てる気にもなれず空知集治監まで持ち込んだ。まもなく典獄から呼び出された。

 典獄は大勢の子持ちであるが、今度また300人の子どもが増えた。実に幸せだ。しっかり働いてくれるようにと、乱暴者の由太郎を責めるどころか元気のよいところを褒めて囚徒頭を命じた。その役割を生かして由太郎は意のままに同房の囚人を動かした。ある日、役人と囚人間で仕事上のトラブルが生じたのを機に、役人を皆殺しにして逃走する手はずを組んだ。

 ところが、外での作業中に、馬上で不穏な様子をいち早く察知した看守長が由太郎に向かって、サーベルと外套を預けて、自分に代わって監督してくれるように命じた。由太郎は逃走を諦めて、囚人の騒ぎをおさめた。

 明治2年(1889)年1月2日の夜、天の使いのように輝ける愛らしくも美しい子どもが由太郎の前に現れて、とくに由太郎のために神の福音を伝えるために天より遣わされたと、手にしている書物を示して「若者よ、この本を食せよ。これは永遠の生命を与える神の真の道である。この本を必ず読め、決してこのことを忘れるな」と言いながら書物を手渡した。

 由太郎は、不思議なことだと思案した途端に他人から呼び覚まされて目を開け、夢であったことがわかった。まんじりともせず、不行跡の越し方を思い巡らし、何の夢だろうかと思いつつ、夢の中の子どもが渡した本はなんだろうかと思い巡らした。すると、ふと明治16年4月の監房にいた一青年から初めて聞かされた聖書であることを思い起こした。安堵して眠りに就いた。すると再び同じことが起こった。続いて起こり、三回も同様な体験をした。

 これは天の黙示に相違ないと信じて、かつて官に預けておいた聖書を手元に戻し、身命を神にささげて義の器とならんと、大決心とともに涙ながらに生まれて初めて祈祷をした。しかし、せっかくの聖書は由太郎には何のことやらわからない。同房のものに尋ねれば、下らないものを読んでどうする、と排斥やら偽りを教えるなどして嘲笑ばかりだった。

 これまでの己の悪道を振り返れば、真面目な人間を迫害したのであるから、聖書を読み、悔い改めた人生を送ろうと周囲に決意を述べたところで、今更周囲は由太郎を信用せずに逆に怪しみ、読書をすることすら迫害した。こうした嫌がらせをされるのはやむえないことだと由太郎は思った。

《聖書読みたさに読み書きの勉強》
 しかし、3度も繰り返された夢と、母のことを忘れることができず、何が何でも文字を覚えようと苦心した。同房のものは気が狂ったかと嘲笑し、看守らも相手にしないなか、囚徒一同から神様とよばれている看守長・原田正之助へ事情を訴える機会ができた。原田が大いに喜びまた同情して親切に指導をしてくれたため、由太郎はカタカナと平仮名をを覚えて聖書を拾い読みすることができるようになった。

 日夜、聖書ばかりに熱中しているため、これまで同房の悪の頭であった由太郎への逆襲が増えたが、耐えることができた。むしろ危害を加える同房者に哀れみすら増した。率先して周囲の嫌がることを率先するようになり、とりわけ監房の便所掃除を引き受け、また便所の側に自分の居を定めた。

《信仰告白》
 ある日、同房で信仰告白を行った。ところが迫害はいよいよ激しさを増し、凶漢10数名が由太郎を取り囲み殺さんばかりの状況になった。かつてならば10人や20人の凶漢をなんら恐れることがなかった由太郎であったが、彼らのために涙を流して真剣に祈る由太郎に変わっていた。その姿に周囲は一人去り、二人去りと、立ち去って、逆にそのなかから数名の求道者が起こり、そのうちの一人は伝道者にもなった。
 この献身者とは、由太郎と同じころに空知集治監にいた亀水松太郎(ナザレン教会牧師)であろうか。亀水もまた看守長・原田正之助から親切に手ほどきを受けて聖書を学び、キリスト教信仰をもった。明治42年(1909)に出獄後、救世軍の労作館を経てフリーメソジスト教会・河辺貞吉牧師のかかわる神学校で7年間の学びを終えて牧師になった。

 由太郎に対する同房内の迫害はますます激しさを増し、半死半生の目に遭うことがしばしばだったために時には心細くもなった由太郎であったが、勇気を奮って同房での伝道に励んだところ200名ほどの同情者が起こった。一方で、ある日、原田と異なる別の看守長から耶蘇教信者は国賊だ、と怒鳴られた。しかし、由太郎はキリスト教信仰を捨てなかった。

 看守長は、相撲をとって由太郎が負けたならばキリスト教を捨てるように命じた。しかし、由太郎が3度とも勝った。由太郎は不思議な力が漲り、看守長の前に跪いて看守長のためにとりなしの祈りを捧げた。20数年後、出獄を許された由太郎が岡山県香登の修養会に参加したとき、西大寺からの2姉妹がある会社の社長室に由太郎を案内した。その部屋に空知で相撲をとった看守長の油絵が掲げてあり、案内した姉妹らの父親であり、西大寺教界の開拓者であったことを知ることとなる。

 時は明治25年(1892)の春、留岡幸助が教誨師として空知集治監に就任した。由太郎は、それまで聖書を一枚ずつ引き裂いてコヨリのようにして人目を避けて熟読したり、手のひらに指で書いては暗記するなどして苦心していたが、留岡幸助来任以来、キリスト教信仰を公にすることができるようになった。

 それどころか、由太郎は、日曜日には特別な許可を得て留岡幸助のいる官舎で日曜学校の手伝いまででき、時には町の人々へ伝道する機会も許された。留岡幸助は、人を頼りとするな、命の源である神に寄りすがれ。神は決して見捨てない、と訓戒してアメリカ留学をするために空知集治監を去った。その後は、キリスト教を捨てるものが増え、迫害は留岡幸助来任以前の状態よりも激しさを増した。

 ある日、夏の炎天下で鍛冶工の外役中に、由太郎は意識不明になり病院に運ばれ、三日三晩の昏睡状態が続いた。その間、由太郎の脳裏に不思議な光景が過ぎった。夢幻の光景を通して、いよいよ来世を思うようになり、同時に霊魂の苦悶が以前にまして激しくなった。ある夜、「聖書を読め」と注意してくれた夢の中の子どもが再度現れて注意してくれた。

《聖書の独学》
 由太郎は嘆願して独房へ特別に入れてもらい、向こう10年間は足が萎えて腐り果てても構わぬ覚悟で、ひたすら聖書を無二の友として3年間で新約聖書をおおかた暗記した。北海道に流囚の身となり、独房の寒気凛冽の冬に一塊の火なくして過ごし、炎熱焼く夏に終日閉居して読書を通すことは体力のあるものでも容易に堪えられるものではない。北海道の囚房で病死するのも不思議でない。そうしたなかで由太郎は過ごしていた。

 信仰が増すにつれ心の苦悶は依然として消え去らずに高まるばかりであった。無期徒刑の上に9年間の重刑まで負っている身で聖人ぶって何になる、どうせ一生涯、ここで朽ち果てるのではないかと悶々とすることがあった。気を取り直して神の恩恵を一つ一つ数えては天にも昇るほどの喜びに満たされて神に感謝するときもあった。

 4年間の独房生活を送って、さらに旧約聖書の研究へと進んだ。通読すること数10回に及び、あらかたの聖句を暗誦することができるほどになった。わが身は北海道に朽ち果てても構わぬが、自分の犯罪で損害を蒙った人々への謝罪をせねばならない気持ちが強まり、いくらかの蓄えから送金と謝罪の手紙を送付した。なかには慰めと励ましの返信まで届いた。真の平和を心に抱きたい思いから断食して10数日間の祈りを続けた。しかし、一向に心が潔められた確信を得ることができなかった。
《キリストの十字架》
 明治28年(1895)の夏の名月の夜、鉄窓の下で祈っているとき、全身を蚊に襲われ、非常な惨めな思いになった。名月は万物平等に照らされているが、自分は哀れにも獄中で蚊に襲われている身。いっそう蚊に一身を与えてここで死んだがましかもしれない、と思いつつ、ある医者が、人の血を吸わなかった蚊は越冬できないが、吸った蚊は冬の寒さに耐えられるとの話を思い出した途端、稲妻のように由太郎めがけて天からの声が聞こえた。イエス・キリストの血凡て罪よりわれらを潔める、と。

 蚊は人間の血により生き、自分は神の子の血潮にて生きる。このことに合点した重刑の罪人である由太郎自身に主イエス・キリストが贖主になってくださった、と悟った。途端に独房は天国となり、由太郎は新しく生まれ変わった。

 明治30年(1897)1月11日、英照皇太后(孝明天皇女御)崩御による特赦により、集治監800余名が出獄できた。その後も引き続き5人〜10人と毎日出獄していった。由太郎に貯蓄を教えられ、出獄後の助けになると感謝して出て行った者がいる一方、由太郎に迫害を加えて蓄えの無いものは哀れな状態で出獄した。由太郎もまた無期から有期へと特赦が下った。

 明治31年のある日、由太郎は主刑の残りが1年で、あとの刑は内地で服役することになり、場合によっては出獄もあろうから外役で健康を保つように勧められ、水道工事に従事した。水道工事は過去に従事したところだったが、過去7年間の蟄居後に見た水道管は朽ちていた。鉄製の入手が困難なため、木管製作を由太郎は考案し、それが空知全体の便利を与える結果となり、大いに喜ばれた。

《母・つるとの面会》
 ついに明治32年3月5日、本刑が免除となり、空知を後にして青森から東京新橋へ、そして神奈川監獄に引き渡された。そこで空知で恩顧を受けた第二課長であった典獄長・有馬四郎助に迎えられ、感激した。有馬四郎助は、由太郎の特段の願いをかなえて独房を許した。長年不通となっていた母・つるとの17年ぶりの面会が許された。

 母との文通がしたい思いを強めた由太郎は文字の練習がしたくなった。この更なる願いをも有馬四郎助はかなえて紙石盤使用を、やがて水書草紙、続いて筆墨の使用まで許した。有馬四郎助は、関係者に種々交渉をした結果、これを機会に全国の囚徒に筆紙墨の使用が許されることになった。

 明治33年(1900)、由太郎は囚徒中の病者を看護する看護夫の一人に選ばれた。そのころ、もと寺の住職であった森田服役者が肺を患った上、梅毒のために尿道が塞がって、器械でも通じない状態で医師もさじを投げた。それを見かねた由太郎は自分の口で森田の膿汁を吸い込んで通尿を可能とした。森田はたとえようのない喜びに留まらず、それまで監内で何かと面倒をかけた態度が一変した。しかし、逆に看護夫たちからは排斥運動が起こった。それは、由太郎の評判が上がればあがるほど、他の看護夫らも由太郎のように細やかな看護をせねばならなくなるからだ。

 明治34年、空知の大恩人である留岡幸助に再会することができた。 留岡幸助の先妻・夏子が死の間際で自分の名を呼んだことを知らされた由太郎は感涙に咽た。

 明治37年(1904)、赤レンガの獄裡で迎えた正月に由太郎は「奉感謝」(かんしゃたてまつる)3文字を分解して判じ物ようにして新年の標語をつくった。
     三人の角なき牛に乗り
         言少なに身を縮め
            咸んな心の中にあり

 その年は、由太郎には標語通りの感謝な年であった。4月には、典獄や署員一同の発起により署内で死亡した囚人のための「千人塚」を久保山に建てた。その式場に由太郎は囚徒代表として列席が可能となった。それから数日後の15日、教誨堂で礼服姿の典獄が由太郎の襟番号を呼んだ。仮出獄の許可であった。

 飛び立つ思いで引き下がった。が、心にかかることがあり、典獄の許可のもと病監に別れを告げるときを得た。患者は声を上げて泣き、別れを惜しんだ。このときの辛い別れが、出獄後の全国監獄廻りを由太郎にさせることとなる。

《23年ぶりの母との生活》
 出獄した夜は典獄宅で、典獄自ら寝具の世話をしてくれて一泊した。翌朝、まず蛎殻町の被害者宅に侘びに出向き、2代目にかわった主人に謝罪と許しを乞うた。すると、許してくれたばかりでなく、励ましまで受けた。その足で母の待つ神田錦町に帰り、23年ぶりの母との起居をともにすることができた。

 ほどなく母とともに由太郎は巣鴨の家庭学校に留岡幸助校長を訪ねた。留岡幸助の勧めにより家庭学校の家族の一員として取締兼実業教師となった。だが、出獄後、1年を過ぎて社会の様子がわかるにつれ、いっそう直接伝道の必要を感じた。とくに全国の在監同胞への福音を語らずにおれない気持ちが高まり、明治38年5月から自由伝道をすることとなって家庭学校を去り、まず聖書売りから始めた。聖書売りを最初に始めた理由は、由太郎にとって聖書は何にも換えがたい命の書であり、大切なものであるためであった。

《すて子との出会い・結婚》
 出獄後、留岡夫人・菊子からある女性を紹介され、嫁ぎ先の世話を依頼されていた。きっと、聖書売りなどで知人が増えたであろうから、との菊子の思いだったのだろう。

 その女性は、すて子といい、8歳で家族と住む家を失い、孤児として福井から東京へ連れて来られ、教育を受けるどころか不幸な身の上となった。しかも17歳のとき、悪漢に襲われて重症を負った。慈善家に救われて治療を施されたのち留岡幸助の家庭学校に引き取られた。女学校に入学して5,6年になるが、17歳のときに受けた頭部の傷のために知的障害者同然の記憶力の乏しい状態で、おまけにトラホームにかかって、築地の聖路加病院で治療を受けたが完治する見込みのない女性であった。

 結局、由太郎はその女性と、明治38年(1905)4月15日、留岡幸助司式のもとに有馬四郎助が媒酌人となって神田錦町の自宅で結婚式を挙げた。母や周囲に反対者がいた。しかも、自立したしっかりものの母とすて子との折合いがよくなかった。由太郎夫妻は別に住まいを巣鴨に移した。しばらくたって妻・すて子が大患にかかり40度以上の熱が下がらず、医者に見てもらった。ところが、肺結核で重態であるとのことだった。

 由太郎は詩篇50−15を思い起こして、全能者なる神におすがりすることだ、と断食も行い、昼夜絶えることなく祈りを熱くして夫婦で神に感謝を捧げ讃美歌を歌った。妻は病状を尋ねた。由太郎は、せっかく自分のところに来てくれたが、まもなくこの世を去らねばならない状態だ。神の国へ行けるかと妻に問うと、妻は答えた。「まことに長くお世話になりました。わたしのような足らないものを今日まで愛してくださってお礼申し上げます」と。そして自分のために夫や母に難儀させたことを詫びたいから「お母さんにあいたい」と、付け加えた。

 由太郎は妻の願い事に胸を打たれた。自分のために23年間泣き通した母の恩愛を思えば、母のもとに踏みとどまるべきだったと、また哀れな妻を自分が愛していたと思っていたが、霊魂の哀れな自分こそ妻に愛されていたことに気づき、妻への感謝がこみ上げてきた。夫妻で夜の明け行くのも忘れるほどに祈り、眠りについて。翌朝、妻のトラホームも肺患も完治し、疲労も数日で癒された。神に感謝をささげ、母に詫びを入れ、再度、同居することとなった。

 思えば、母・つるは、大村家が分散したため16歳ころから苦労の連続であった。長女であるために由太郎のことで裁判所に何度も呼び出された。新聞記者の好地重兵衛が明治21年に死去し、大村家の実父も同じころ死没した。その後、由太郎を尋ね求めて北海道まで渡ったが、遭うことができなかったために函館で10年余り産婆業を営んでいた。由太郎が出獄のころは東京に戻り、神田で産婆業のかたわら下宿人なども置き、自活生活をしていた。男勝りの義人であった。

中田重治
 由太郎は同38年(1905)7月22日、
中田重治の率いる東洋宣教会に招かれた。浅草駒形町の(浅草)駒形伝道館に家族で住み込み、直接伝道に従事することとなった。22日の開館以来連夜説教会を催して家族ともども働いた。働き始めて40日余りが経過した9月5,6日に浅草焼打ち事件に遭遇した。

 あたかもポーツマス条約に対する大衆の不満が日比谷公園から起こった暴徒によるキリスト教会堂の焼き打ち事件へと発展したのだった。浅草駒形伝道館を手始めとして付近の教会堂は散々な目に遭い、全部灰塵と化した教会が出た。中田重治植村正久とも相談して騎馬兵士の配置に奔走した。

 中田重治は、好地由太郎に限らず世の隅に置かれがちな人々へ積極的に手を差し伸べ,、教会生活のみならず自己の運営する東京聖書学院で学ばせたり、伝道活動の御用をさせていた。アイヌ伝道者・江賀寅三、ハンセン病を罹患した伝道者・安倍千太郎がその例であろう。

 そのような信仰に共感した由太郎もまた、「うわばみのおみね」とあだ名されていた女性を信仰に導いた。彼女は伝道館の助けをしばらくした。また工学博士の50歳代の紳士をも由太郎は信仰に導いた。神を信じることは、知識によらず幼子の心が求められていることなのだ。

 由太郎は明治39年3月22日浅草警察署より呼び出され、「向こう三ヵ年間の監視全免」との特典に与った。特典に結びついたきっかけは、ある日、小川町の警察署より強盗の容疑で取調べを受け、過去の由太郎の行状に遡り、嫌疑が晴れない取調べの過程で「共犯者は誰だ」「由太郎が盗みに入ったの見たんだ」と刑事は見たことのあるような虚偽で由太郎を責めたが、由太郎は虚偽の取調べに対して動じることなく「共犯者、それは警監教師・留岡幸助」と答えた。

 最初は、警察側は由太郎になめられたと思ったが、由太郎が留岡幸助とのかかわにいたるまでの悔改顛末を刑事に証したことが動機となって、関係者が「監視全免」の方向に尽力してくれたのであった。

 明治40年(1907)春に向島の須崎に引っ越して自宅を集会所として花見客相手の天幕伝道を行ったり、 聖城団と名を付けて出獄人や不良青年の保護にも従事した。あるとき、松山監獄から特に典獄の依頼により「熊蜂」とあだ名されている在監年数18年の大酒飲を世話した。種々の失敗を熊蜂は繰り返したが、すっかり悔改めて大書した十字架入りのはっぴを着て由太郎の手足となってよく働いた。のちに由太郎は、「熊蜂」と「うわばみ」の媒酌人となった。彼らは忠実な主の働き人として教会と人々に仕えた。

 由太郎は浅草を去ったが、東洋宣教会の教役者として11月6日、中田重治との千葉地方の巡回伝道を行った。東金、銚子、そして婦人宣教師・グレンや都田友三郎の伝道を支援した。
 
 その年は向島で水難があった。さっそく、聖城団の若者とともに天幕伝道用の板で筏をつくり、多数の遭難者を救助し、由太郎の高台の家へ避難させた。近所から「箱舟」と呼ばれ、感謝とともに神の聖名が崇められた。

 明治41年4月10日、東洋宣教会の教役者一員として由太郎は任地を聖書学院として任命された。

 大正6年(1917)5月27日のペンテコステ当日は東洋宣教会は終日の集会を開催した。このとき、由太郎は浜松教会において復権の沙汰に与った感謝会を開催していた。由太郎は、大正4年11月10日の恩赦に関する詔書に基づいて特典を持って復権が赦された(大正5年2月21日付司法大臣・尾崎行雄)。

森村市左衛門
 中田重治は、有馬四郎助そして森村市左衛門とともに説教すると広告した。森村市左衛門と中田重治はペンテコステ特別伝道前の5月12日からいっしょに茨城県日立市を旅行して、森村が親しい久原房之助所有の鉱山や、劇場その他で伝道集会を開催した。森村はさらに仙台まで足を伸ばして応援伝道を行った。

《森村市左衛門に授洗》
 森村は由太郎の説教によろこんで耳を傾けるだけではなく、由太郎からの授洗希望を抱き、洗礼を授けられた。森村が死去(大正8年(1919)9月11日)する2年前のことだった。『恩寵の生涯』の書中に森村の一幅が納められている。長尾半平が受洗を勧めても承諾しなかった。それだけ、森村は由太郎に信頼を寄せていたのであろう。

 著書が自伝『鉄窓の二十三年』と、その改訂版となる『恩寵の生涯』(大正6年刊)がある。前者の評判が功を奏して巡回伝道者として全国で由太郎は用いられたのであった。
<やりかけ>
神戸で座古愛子と会う。

出 典 『恩寵の生涯』 『恩寵の奇跡』 『中田重治傳』 『キリスト教歴史』 『植村正久と其の時代 第五巻』