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  安倍 千太郎        明治15年(1882)5月〜昭和7年(1932)1月26日
 明星団組織者
 自らハンセン病患者として、主としてハンセン病患者のために尽力したホーリネス教会の牧師
 
《生い立ち》
 宮城県の農家の三男に生まれた。小学校時代は相当ないたずらっこだったようだが、成績はよかったので、尋常小学校4年で1年生の助教をつとめた。仙台の中学校に入学したが、校内4秀才の1人に数えられ、本人も医学博士になろうかと思っていたほどだった。

 だが千太郎は、仙台中学校在学中に左腕に斑紋が生じ、ハンセン病を得て退学したが、外部に兆候が余り現れなかったため、明治31年(1898)母や友人には医科大学の受験準備のためだと偽って上京して、外国語学校でドイツ語を学んだ。

《受洗》
 外国語学校に在学中の34年(1901)、メソジスト教会牧師・高木壬太郎の説教を聴いて信仰をもち、コーツ,H.H.から受洗した。

 受洗をしたころ、アメリカからカウマン,C.E.夫妻が来日して中田重治笹尾鉄三郎と東京神田の表神保町に中央福音伝道館を創設した。千太郎は、「ただ信ぜよ ただ信ぜよ 信ずるものはたれでも みな救われる」という聖歌や中田重治笹尾鉄三郎の説教に魅了され、中央伝道館に通った。

 ハンセン病の病状が外部にも目立つようになったことから明治36年(1903)に外国語学校を退学し、信仰も捨てて放浪生活を送り、故郷の楯岡付近に隠遁した。

 明治39年(1906)山形県の楯岡福音伝道館に出入りしてキリスト教の福音に接しているうちに前川忠次郎伊藤文康に導かれ、翌年末に悔い改めて信仰を回復した。中田重治や笹尾鉄三郎の巡回説教を聴き、「たとえ病身であれ、一生を神にささげ、何事か尽くすべきである。少なくとも、世に捨てられた病者に来世の望のあることを紹介する義務がある」と信じるにいたった。

 キリスト教の研究がしたくなり、同43年(1910)、上京して東京聖書学院の講義を半年間聴講することとなった。中田重治は彼を聴講生として快く許可した。すれ違いに三上千代が聖書学院を卒業し、伝道地に赴いた。

 明治44年(1911)3月、仙台の幼稚園教員・田中いよえと結婚した。29歳であった。妻・いよえは中田重治を介して、安倍がハンセン病を患っていることを承知で彼の手足となりたくて、いよえのほうから申し込んで結婚したのだった。翌年、伊豆大島でハンセン病患者に対して福音宣教のために尽くした。中田重治の配慮による伝道地でもあった。

 当時、東京の田端や日暮里には、ハンセン病患者を相手にした病人宿が存在していた。ハンセン病治療に上京した患者の定宿にもなっていた。警視庁は東京市内を放浪しているハンセン病患者の取締りを厳しくする一方で、田端や日暮里の患者については黙認していたという。

 千太郎は、伊豆大島から上京して田端あるいは日暮里の患者に対してキリスト教伝道を行っていたが、大正4年(1915)、大島から住まいを移した。

 大正13年(1924)4月15日から20日まで大正13年度ホーリネス大会が開催された。この大会中に安倍千太郎は、竹内かつ宇井亮の両伝道師とともに按手礼を受領した。当時のホーリネスでは、正規の教師として扱われる。

 翌14年(1925)年、千太郎は草津に聖書学塾を開設した。そして、草津の病者の群に入り、草津明星団を結成させ、有志に聖書講義をする日々を晩年まで続けた。

 中田重治は妻・あやめを連れて草津に安倍千太郎を訪問し、1週間ほど滞在した。親しく語り合いながら、ハンセン病患者の救済を痛感した。これよりいっそうホーリネス教会は中田重治の信念であるユダヤ人伝道に加えてハンセン病患者の伝道をホーリネスの特別伝道種目として重視した。

<やりかけ>

出 典 『足跡は消えても』 『コンウオール・リー女史』 『中田重治傳』 『キリスト教歴史』