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 三上 千代    明治24年(1891)10月〜昭和53年(1978)7月18日
 伝道師であると同時にハンセン病患者に対する看護活動に従事した看護師である。

《生い立ち》
 千代は、山形市旅籠町に父・三上定房と母・キイの4女として生まれた。父・定房は山形地方裁判所勤務。明治36年(1903)山形高等女学校に進学したが、父の死によって、中退して、新庄町で製糸・機織業を営む伯父の家に預けられた。

 明治41年(1908)千代は上京して、東洋宣教会の聖書学院に入学した。東洋宣教会は、中田重治の起こしたホーリネス教会である。卒業後は、南伊豆、上諏訪などの福音伝道館で婦人伝道師として働いた。千代は、聖書学院時代、南伊豆時代、上諏訪時代それぞれでハンセン病患者と出会った。そのつど、ハンセン病患者に伝道をした。

 ハンセン病患者に出会いが、千代と人生の大半をハンセン病患者のためにささげた医師服部ケサの妹テイすなわち作家・水野仙子の「一粒の芥子種」(大正4年)のテーマとなった。

《ハンセン病患者への奉仕に生涯を尽くす決意》
 千代は、ハンセン病患者への奉仕を決意して明治45年(1912)に三井慈善病院看護婦養成所に入所した。このころ服部ケサを知り、ケサも千代からの影響を受けてハンセン病患者のために生涯を尽くすきっかけとなった。ケサは医師の免許を取得していたが、当時は女医の働く場所が少なかったこともあり、看護婦として就職していたのであった。

 大正3年(1914)、千代は東京府の看護婦試験に合格した。大正5年(1916)に東村山の全生病院勤務した。当時の全生病院には中年以上の、しかも既に社会で一役を終えた職員が多かった、と言われている状況で、千代は25歳という若さであった。月給は19円だった。

《宿沢薫》
 大正6年(1917)、宿沢薫が草津から上京して全生病院に千代を訪ねた。そして、草津に来て欲しいと懇願した。
 宿沢は山梨県に生まれた。小学校を終えるとハワイに渡り、友人と共同で青物乾物商を開いた。26歳のとき、ホノルル聖公会で司祭・深尾泰次から受洗した。しかし、1914(大正3)年にホノルル病院でハンセン病と診断されたため、一時帰国して東京帝国大学医学部病院に通院していた。そのころ、本郷の「病人宿」で草津のことを聞き、草津に移った。そして光塩会に入り、副会長に推され、伝道していた。

 宿沢は、病状が比較的軽かったのでハワイに帰り、仕事を整理するつもりで田端の病人宿に泊まった。宿の主人・後藤敏雄はクリスチャンで、同信の患者も宿泊していた。また、ホーリネス教会の伝道師・安倍千太郎も、伊豆大島から上京してはここで患者に伝道していた。ここで、宿沢は安倍のほかに三上千代や服部ケサとも出会った。

 ホノルルに残してきた財産よりも草津の患者伝道に使命を覚えて草津に戻ったのであった。
 草津に戻った宿沢は旅館の別館を借りてヨルダンホームを開設して基督教光塩会の看板を掲げた。大正4年(1915)、宿沢は伝道師補に任じられたが、キリスト教伝道のために指導者の定住を痛感した。

 他方、イギリスの貴族出身で女性宣教師コンウォール・リーは草津のハンセン病患者のことを宿沢によって知り、井上照子伝道師とともに草津に赴いた。

 大正6年(1917)、千代は、宿沢に懇願されると全生病院を退職して草津に向かい「愛ノ家庭」の舎監となった。その秋、服部ケサが医師として参加して、小さな宿舎を改造して聖バルナバ病院を開設した。ケサは大正13年(1924)まで勤務した。

 千代は舎監に加えて、C.リーが群馬草津に設けた聖マリア館、聖バルナバ医院の看護婦であると同時に伝道師でもあった。そのころの千代について「三上看護婦は元気横溢、女丈夫であった」と評されているが、ホーリネス教会育ちの千代は祈りの伝道師であった。千代の行った説教で草津にリバイバルが起こった。

《中田重治の伝道》
 ホーリネス教会の監督・中田重治は特殊伝道のひとつとしてハンセン病患者のための伝道に力を入れていた。安倍千太郎・いよえ夫妻の働きに合せて千代の働き、そして女医・服部ケサの働きはホーリネス村をつくる勢いだった。大正10年(1921)12月に中田重治は草津に応援伝道に出かけた。

 妻恋で下車し、2里ほどの山道を馬で、1里手前まで来ると6名のハンセン病患者が提灯を下げてリバイバル聖歌を歌いつつ中田重治を出迎えてくれた。涙が出るほど感激しながら草津の入り口に近づくと千代をはじめ大勢が中田重治を迎えた。7,8日昼夜、7,80名から140,50名の聴衆に聖マリア館で説教をした。中田重治のために旅費として17円がささげられ、中田重治は患者の気持ちに涙した。千代たちの立派なあかしが献金となった。

 中田重治は、どれほど神に感謝をささげ、リバイバル聖歌を通して声高々と神を賛美したことであろう、と中田重治の真剣な伝道活動を知るものは誰でも行間から想像するに難くなかろう。
 
《服部ケサの死》
 服部ケサは聖バルナバ医院を去り、鈴蘭医院を開設して22日目、一人の患者の診察することなく、40歳で亡くなった。服部ケサの追悼式に千代は語った。「池の中に投じられた小石はもはや浮かび上がることもないが、その波紋は必ず岸辺に達します」と。

 千代は、同年聖バルナバ医院を退職、翌年、全生病院に復職した。同年、埼玉県の産婆試験に合格した。その足で再び草津の地ハンセン病患者のための施設を開設して「鈴蘭園」と名づけた。

 大正14年(1925)、光田健輔の寄付した千円で、治療センターが建てられ、千代の母キイもきて、ふたりで患者の世話が始まった。光田健輔や船尾栄太郎は生活費を援助した。船尾は千代や服部ケサが三井慈善病院に勤務していたときの事務長である。

 ほかに吉岡弥生が東京女医会に寄付を呼びかけて450円を集めた。これで千代は農家を買い求めて患者の住まいとした。東京阿佐ヶ谷の児玉琴枝は東京女医会の募金に参加し損なったからと個人的に寄付を続けた。また賀川豊彦も自身の眼疾治療も兼ねて鈴蘭園に滞在し、三上千代後援会を起こしたり、小説化もした。

 大阪堺の岡村平兵衛は大風子油を絞った残りを送ってくれたので、千代はこれを患者の入浴剤とした。その他、多方面から千代を助ける人々が増えた。まさに、千代は、服部ケサの追悼会で語ったとおりに神の栄光を照り輝かせる働きを成し得た。

《医師から看護人となっても》
 昭和6年(1931)に、宮城県名取郡秋保村に第二鈴蘭園を開設した。また仙台市長町鹿野に患者の子どものための保育所を開設した。しかし、これらは成功しないままに千代は心労も重なったであろう、健康を害した。昭和8年(1933)にそこを閉じて全生園に復職した。しかし、そのときの身分は看護人であった。

《沖縄での働き》
 昭和8年(1933)、全生園の看護人を退職して、昭和13年(1938)沖縄の国頭愛楽園の看護婦長として赴任した。ときに47歳。太平洋戦争末期の困難な時代にあって患者を守り通した。戦後(昭和21年)に東村山全生園の婦長となり、ハンセン病患者救済に尽力し、昭和28年(1953)退職した。

《ナイチンゲール賞授与》
 昭和32年(1957)にはナイチンゲール賞を授与された。

《召天》
 晩年は、清瀬市の信愛病院で過ごした。銀座教会のメンバーによる清瀬訪問は昭和21年(1946)に発足した「光の組」メンバーによって継続されてきた。そのメンバーは、銀座教会に関係する人だけではなく、三上チヨの病室にも訪れては讃美歌を合唱した。チヨの楽しみであり、慰めになったことだろう。

 チヨは、親愛病院で、87歳の生涯を閉じた。千代の墓は服部ケサの横に建てられた。
一粒の芥子種  『文章世界』(田山花袋主筆。9月号)に掲載。内容は、野村という20代の女性がハンセン病患者に偶然にも2度も出会い、それが契機となって、ある富豪一族が資金を出した病院で看護婦見習いになった経緯が綴られている。姉ケサがハンセン病患者のために働くようになってテイも関心を抱いたことから、題材となったことがうかがい知れる。
出 典 『足音は消えても』  『キリスト教歴史』 『中田重治傳』 『銀座教会九十年史』
東京聖書学院 http://www.jhc.or.jp/tbs/
国立療養所多摩全生園 http://www.hosp.go.jp/~zenshoen/
信愛病院 http://www.shin-ai.or.jp/index2.html

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