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 井上 照子
 伝道師

 千葉医学専門学校教授・井上博士の妹。
 明治42年(1909)聖ヒルダ女子神学校を終えて、南東京地方部の各地の教会に婦人伝道師として歴任し、リー女史と出会って以来、照子は大正5年(1916)リー女史と共に来草し、生涯をハンセン病者のために献身した。

 リー女史は、1857年(安政4年)5月20日、英国カンタバリに生まれた。家系は名門で一族はハイ・リーと証する地域に大邸宅があり、従兄弟の家族みなその地に住み、一族だけの礼拝堂をもち、司祭を招聘している家で過ごした。父はインド駐屯軍の職にあって勲功のある陸軍大佐であったが、リー女史の幼少のころに病没した。母と兄と3人暮らしのなか、貴族としての教養を身につけた。さらに得意のピアノと水彩画を学ぶためにフランスに遊学中、兄の死を知り、急ぎ母を慰めるために帰国し、母の実家であるカナダにしばらく滞在した。

 英国に戻ったリー女史は大学に入学して学びを深め、29歳でL.L.A.の称号を得た。学問を深めたリー女史であったが、何よりも信仰厚く、幼少より信仰に励み聖書を通読すること何十回、旧新約聖書の聖句を自在に引用していた。老母を慰めるために世界漫遊の旅に出て、再びカナダ立ち寄り得意の水彩画を残した。旅行の途中、日本にも立ち寄り、リー女史の心に印象付けるものがあった。

 母の逝去に遭い、日本にキリスト教を伝える使命に燃え、当時日本に伝道の拠点をもっていた英国の伝道協会SPGの自給宣教師として明治41年(1908)に来日した。時に51歳であった。まず、日本語を習得し、明治43年(1910)には英文で「基督教に関して一友に与うる」という教理解説書を書き上げ、英和対照として、英語を学びつつキリスト教を受け入れることのできるようにとの配慮をもって伝道の一助とした。
 
 リー女史は照子を伴って大正4年(1915)7月下旬、草津の白根ホテルに2週間滞在し、宿沢からの案内で湯之沢を視察し、強い使命感に燃え、一帯を買い入れて永久に病者のための部落を作ることを決め、翌年、照子を伴って来草した。

 小さな小屋を買受け、リー女史と照子はそれに「満足」と名付けて住み込んだ。毎日、リー女史と照子は湯之沢で伝道を行い、聖バルナバ教会設立へとなった。

 照子は、リー女史の片腕となって7ヵ年を一日のようにハンセン病者のため に献身的に働いた。ところが、強度のリユーマチスにかかり横浜に療養中、大正12年(1923)9月1日のの関東 大震災に遭遇した。その折、火に追われ、水中に逃げたのがもとで病が悪化し、千葉の兄の下でついに逝去した。


<やりかけ>
出 典 『コンウオール・リー女史』
草津のお母さま(http://www.try-net.or.jp/~k-ohta/kusatu/leigh.html

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