笹尾 鐵三郎 明治元年(1868)8月15日〜大正3年(1914)12月30日 |
明治期のホーリネス教会の指導的伝道者
《生い立ち》
伊勢安濃郡新町古川(現在の津市)で、父・伊藤総之助と母・そう子の5人目の末っ子として誕生した。鐵三郎の上に兄2人、姉2人がいた。3番目の強い男子になるようにとの親の期待から鉄三郎という名がついた。祖父・保七は庄屋をつとめ、のち藤堂藩奉行になった。鐵三郎の父も庄屋であった。
幼児期に父が死没したため兄の七右衛門が父親代わりだった。母は、浄土真宗派の熱心な信者だったので、お寺に行くときには鐵三郎をいつも連れて行き、朝のお経を唱えないと食事をさせてもらえなかったというほど、宗教心は幼児期から養われていた。
明治19年(1886)津中学校を卒業後、上京して慶応義塾に入学した。塾長・福沢諭吉に認められ、期待されていたが、慶応義塾生となってまだ2年足らずでアメリカ留学を志した。当時は皆兵制度があったが、家の長男は免除されていたため、鐵三郎も子どものいない笹尾家の養子になって、制度を免除された状態で、大学を卒業をしないまま明治21年(1888)5月に渡米した。
《渡米、回心》
カリフォルニア州サンノゼのパシフィック商科大学に入学した。敬虔なクリスチャンホームにハウス・ボーイとして下宿した。家主のダージ夫人は若いころ宣教師として渡日したかったこともあり、鐵三郎がキリスト教信仰を受け入れるようにとの熱心な導いた。しかし、鐵三郎は母・そう子が「キリスト教は邪教だから、絶対に信じるな」と言ったことが心に残り、苦しんだ。
それでも、明治21年(1888)12月30日、回心した。
明治22年(1889)ころは、サンフランシスコで河辺貞吉、丹森太郎、東ケ崎菊松らがハリスから聖書の学びを続けていた。河辺貞吉は美山貫一の後任としてサンフランシスコ日本人教会牧師になった。鐵三郎も河辺貞吉の説教で励まされ、神のために働きたいという希望を強くもった。河辺のそばで日曜学校校長として、また伝道師として働いた。
河辺貞吉と笹尾鐵三郎の働きによって、秋山由五郎、木田文治、伴新三郎、森永太一郎、上田恭輔らがクリスチャンとなった。
<やりかけ>
長じて笹尾家を継いだため、笹尾鐵三郎として名が通っている。
中学上級生のころ、大病を患い、死生について考えた。 |
出 典 |
『笹尾鐵三郎』 |
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