江賀 寅三         明治27年(1894)12月5日〜昭和43年(1968)6月28日
 アイヌ出身者で、アイヌ伝道に生きた牧師。

《生い立ち》
 北海道・振国山越郡長万部村字紋別の半農半漁の純アイヌである吉良寅八(アイヌ名クリキン)の三男として生まれた。母は、寅三が3歳のときに他界した。父や兄姉から彼らの目玉のようにして愛情を受けて育った。父の出かける先には腰巾着のようにしてどこにでも連れて行ってもらった。父は、タバコは吸わなかったが、いわゆるアイヌのだらしのない飲み方ではなかったが、酒を好んだ。

 明治35年(1902)8歳から長万部小学校で混合教育を受けた。学校は自宅から1里余りあるところまで通った。学年末の成績はいつも優秀で、シャモにもアイヌにも可愛がられた。学校が好きだったから悪天候でも出かけたが、校長の田中館政隆や教諭の山瀬新吾は、吹雪のときには定宿のように泊めてくれた。

  9歳になると、親戚にあたる独身の老翁・江賀渋次郎(アイヌ命エカシプニ)の名義上の養子となった。生活は、自分の家だった。村には松原牧場があり、日曜日以外でも学校から帰ると牛番をして、松原親方から学用品や小遣いなどもらって、可愛がられた。

 明治40年(1907)の秋、寅三の13歳のとき、北海道長官・園田安賢が鴨狩りの途中、昼食を寅三の家でするために立ち寄り、食事の用意を強要した。学校から戻ってひとりでいた寅三は、ジャガイモを茹でて出した。この時代は、アイヌを人間の数にはいらないような扱いをすることが珍しくなかった。園田長官は寅三に1円をくれた。このとき、寅三は、アイヌだって勉強して、偉い人になれないはずはない、奮起するぞっ、と決意した。この決意は、シャモに馬鹿にされてたまるか、という奮起なのか、それとも長官から1円を貰えたことによる将来的展望としての奮起なのかは、わからない。

 混合教育を受けていた寅三たちアイヌは、しばしば民族的な屈辱を味わうことがあり、小学生間で起こる喧嘩に刃傷騒ぎもあった。アイヌに学問は不要との周囲の無理解の中、寅三は兄姉らの理解の下で、明治43年(1910)17歳のとき、虻田実業補修学校(虻田学園)に学ぶ機会が与えられた。

 虻田実業補修学校は、アメリカ留学から戻った小谷部全一郎の努力によってアイヌ民族扶育救護を目的として設立された実学的学校であった。寅三は、そこで獣医科を選択して学科と実科に励んだ。ところが、その年の7月21日、有珠山の大噴火が起こり、その他の事情もあり、3ヶ月で学園は閉鎖となり、翌年に廃校となった。

 僅かな期間であったが、虻田学園から後半ウタリの優れた指導者が多く生み出された。寅三にとっても得がたい人脈ができた。何よりも虻田学園の実務的責任者である吉田巌に可愛がられ、閉校後も寅三のことを気にかけてくれた。明治45年(1912)19歳のとき、吉田の尽力で札幌の視学・山崎のもとでで、小学校教員としての必須科目についての学びをする機会が与えれれた。苦学とはいえ、寅三にとっては、このときの経験がのちの独立した生活を支えた。

《代用教員》
 大正2年(1913)20歳のとき、寅三は、新平賀小学校(旧土人学校)代用教員として採用された。小学校時代に近所のコタンの子どもを集めて学校の先生の真似をして読み書きを教えたことのある寅三であるから、教えることがきっと楽しかったであろう。校長・藤原は寅三に学校事務から授業準備にいたるまで手をとって指導した。丸顔の寅三がうれしさを漲らせて必死で校長・藤原の指導についていったのが目に浮かぶ。

 だが、学校ではアイヌとシャモの喧嘩。加えて、教員・吉田貫一が親睦会の席上、アイヌの祖先は犬だ、と会場を沸かせた。寅三は激しく立腹し、文書で吉田貫一を糾弾した。それほど、アイヌは人権無視の扱いを受けていた。

《結婚》
 同2年は寅三にとっては喜ばしい結婚式を挙行できた年であったが、生活環境は、霜害による凶作で、翌3年はアイヌから飢餓が増えた。寅三の家庭には妻・平賀はる子を姉とも叔母とも呼んでコタンの子ども達が朝夕慕って来た。さながら孤児園のようだと人々に評されたほどだった。

 元来狩猟を生活の糧としていたアイヌが明治政府の政策上、農耕を強いられたことにより、大正2年の凶作の悲劇は入植した日本人以上にアイヌは悲劇を蒙った。既に早くからアイヌのために献身的に生活全般にわたって面倒を見ていたジョン・バチェラーは篤志家から米・麦・ミルク等々を集めてアイヌの飢えを救うことに尽力した。

 大正3年(1914)9月、寅三は教育者としての技術向上のために推薦を受けて、日高教育会主催の浦河準教員養成所に6ヶ月間の入所が許された。21歳の寅三はまことに栄光身に余る喜びで入所した。驚いたことには、寅三が年長者だった。

 大正5年(1916)23歳の寅三は、平取小学校(旧土人学校)に勤務し、教員生活に慣れきたころ、アイヌは酒で滅びる、断固としてこれと戦うといった初志が薄れ、酒に呑まれる状態に落ちぶれてしまった。そうしたコタンのある会合の夜、教え子らに助けられながらの帰路、小用で立ち寄った先に鵡川チン教会牧師・辺泥五郎がいた。寅三にとって聞くも汚らわしいキリシタンバテレン牧師・辺泥五郎から一喝された。

 辺泥五郎は、バチェラーたちのアイヌ伝道によって救われて伝道者となったアイヌの1人であった。『ジョン・バチェラーの手紙』には、バチェラー家の養女・向井八重子の手紙が紹介され、その文中にペテーゴロー(辺泥五郎)さんにお遭いし・・・と出てくる。

《受洗》
 忘れることのできない大正6年(1917)1月10日の夜半のことだった。酒乱の夫の帰宅を待っていた妻に平身低頭し、「今後キリストの十字架の能力で、断然禁酒して初めの意志を貫徹したいものだ」と語りあった。その後、日高巡回をしていた「アイヌの父」ジョン・バチェラーと出会い、2月11日、寅三夫妻はバチェラーから受洗した。それからは、日曜礼拝に新平賀と鵡川間往復6里を出かけて欠かさず守った。

 
 大正7年(1918)静内遠仏小学校(旧土人学校)に勤務。25歳
 大正10年(1921)遠仏小学校を自ら廃校に導き退職する。28歳
         札幌バチェラー宅にて『アイヌ語辞典』編纂を手伝う。
 大正11年(1922)聖公会平取教会副牧師となる。29歳
         「旧土人教育規程」に関し意見書を提出する。
         東京聖書学院に学ぶ。29歳  ← 『中田重治傳』と異なる。

 大正13年(1924)6月、中田重治は東北、北海道伝道に出た。旭川、十勝、釧路、美幌、そして網走から札幌へ回り、聖書大会で武本喜代蔵平出慶一とともに講演を済ませると、インマヌエル村に出向いて青年4名に受洗した。そのとき、江賀寅三に会った。江賀寅三は、伝道者希望を中田重治に訴えた。

 寅三は、聖書学院における学びを1年で終えると日高のアイヌ部落でエコスタン(耶蘇の村)を設けて、禁酒村計画を立てて努力した。中田重治は大正14年6月に、寅三を慰問している。

 インマヌエル村は、同志社出身の志方之善が北海道に理想のクリスチャン村を建設しようという壮大な計画をもって入植した。妻・吟子(荻野吟子)は夫の理想樹立のために尽力したが、途中で志方之善が病死したことで東京に戻った。

 大正13年(1924)互助組合給与地整理事業に関し陳情。31歳
 大正14年(1925)32歳になった。信仰を持ち、ジョン・バチェラーから受洗した聖公会を脱会した。この年の5月2日、東京聖書学院の中田重治が九州と中国・朝鮮旅行に出かけたので、寅三は途中の岡山まで同道した。約1ヵ月後に中田重治が北海道伝道に来道したとき、寅三は日高で再会した。寅三は、このときエスコタン(ヤソの村)を設けて、禁酒村建設を計画していたのだった。

 大正15年(1926)高見給与地払下げを陳情し、エスコタン運動を進める。33歳。
 昭和3年(1928)ホーリネス福音使として旭川に駐在。35歳。
           樺太に宣教。36歳。
           再度、樺太に宣教。
 昭和4年(1929)バプテスマおよび聖餐の諸式執行の許可。 37歳
 昭和5年(1930)樺太アイヌに国籍獲得のため運動をする。38歳。
 昭和7年(1932)樺太より北海道に戻り、日高姉茶に駐在する。40歳
 昭和9年(1934)日本学術振興会より謝状を受ける。42歳
 昭和11年(1936)「旧土人学校」全面廃止運動をする。44歳
 昭和13年(1938)社会情勢悪化のため教会を一時解散する。46歳
 昭和15年(1940)長万部町役場に勤務。48歳
 昭和21年(1946)アイヌ協会理事に就任。54歳
 昭和22年(1947)司法書士の免許取得する。静内で代書業を営む。55歳
 昭和26年(1951)行政書士の免許取得する。59歳。
 昭和37年(1962)超教派独立伝道者として再献身する。70歳
  「青少年健全育成推進功労者」として知事表彰を受ける。
 昭和39年(1964)NHK「或る人生」にて全国放映される。72歳
 昭和43年(1968)「新生教会」献堂式 76歳
 昭和43年(1968)6月28日、召される

<やりかけ>
 「シャモ」(日本人)という表現は、江賀寅三が自伝で述べている表現として、使用した。
出 典 『アイヌ伝道者』 『ジョン・バチェラーの手紙』 『アイヌの歌人』 『中田重治傳』 『キリスト教歴史』