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 座古 愛子  明治11年(1878)12月31日〜昭和20年(1945)3月10日
 歌人、随筆家

<生い立ち> 
 兵庫県神戸の新田浜に生まれた。
 祖母・武井みつは信州下諏訪出身であるが、夫に先立たれたために財産を整理し、旅費を工面して四国巡礼に出た。遍路中に播州飾磨で再婚して、愛子の母・すゑを生んだ。やがて、愛子の母・すゑは18歳のとき島之上の資産家・浜伊屋という旧家に嫁いだ。浜伊屋に嫡男がいなかったために養子が迎えられていた。その妻としてすゑが嫁いだのであった。

 すゑの夫は三道楽を始めて持ち舟2艘まで買う始末であった。行状の改まらない夫に愛想をつかしたすゑは25歳のときに長男を連れて実家に戻る。が、実家も不幸が続き居辛い状態だった。そのとき、薩摩藩島津公の家老が兵庫の本陣・小豆屋に逗留中に、側室の4歳児のための乳母を求めていたので、すゑが採用された。

 3年後に実家に戻ると仲人が夫との縁を戻す説得により、敷居を再度またぎ直した。しかし、再び夫の行状が悪くなり、母は身重の身で長男を連れて実家に舞い戻った。実家といえ兵庫の東川崎町の小さな長屋暮らしであった。そこで父の顔を知らない子として、座古愛子は誕生した。

<祖母の入信> 
 そのころ、座古愛子の祖母が小間物屋を営んでいた。そのときの出入りの医師夫人から祖母がキリスト教信仰に導かれた。祖母は、日曜日は休業をして必ず教会の礼拝に出席した。礼拝後は、貧家を訪問しては愛の言葉に添えて小さな金包を渡すのを唯一の楽しみにしていた。それが己が貧しさを忘れることにもなったからだ。

 愛子の母・すゑは生活費を稼ぐために洗濯・縫い物から代書に至る仕事をなりふりかまわずにやった。が、乳飲み子を抱えた身では思うように仕事がはかどらない。ある富者は養子の口利きをするのもいたが、愛子の母は、乞食をしても子を手放すことはしないと決めた。結局、母・すゑは、愛子ら2人の子どもを祖母に預けて県立病院の看護婦の仕事に就いた。祖母は、毎日午後になると門外に、愛子を背に愛子の兄の手を引き、母・すゑが見える位置に来ていた。同じ時間帯に母・すゑは、門内の節穴から老母と我が子の姿を眺めていたのだった。

 住み込み看護婦をして祖母と愛子ら兄妹を支えていたある夜、思わぬ災いに襲われた。祖母と愛子が一夜にして両眼が腫上がり、愛子は全快したものの祖母は盲目になった。盲目状態で幼い孫の世話と小商いは無理であるため、母が病院を辞して自宅に戻ってきた。2年が過ぎたとき、兄は鳴尾の農家へ5年奉公に出された。親子4人の糊口をしのぐためであった。

<母の再婚> 
 口利き仲人の再三にわたる口説きで飢え死にするよりはましだと、決意して母は33歳のとき、長男そして愛子を嫁入り道具代わりに伴って今出在家町3丁目の座古久兵衛と再婚した。養父も一女の子持ちであった。七面鳥を主とした養鶏所を営んでいた。七面鳥が高値で売買できたのか、生活はこれまでにない余裕を見た。愛子の6歳のころであった。

 祖母は、母の生家に近いところに住んでいた伯母の家に同居していた。母は、毎日愛子に米銭を背負わせて祖母の食費の面倒を見た。ある年の大晦日の夜、火災が発生し、火元のほか愛子の住んでいた家など2軒が焼け出された。出在町の貸家に僅かな鳥とともに落ち着いたのもつかの間、鳥が盗難にあった。鳥を探してくれた21歳のゆきが発熱したため愛子の母が看護婦だった経験を生かして看病したが、その甲斐もむなしくコレラで急死した。病人がいたというしるしに家の門に黄色い紙を張り、家族は避病院へ隔離させられた。

 次々の病に襲われ、養父も働くことが困難になり、家賃を滞納したことで無一文で体だけで父方の姉と4人で東出町に転居した。両親が大発奮して養鶏所をつくり、家鴨300羽、鶏20羽を卵から養鶏して生活を立て直し、祖母を引き取り、百姓奉公の兄が戻り6人暮らしになった。愛子の母は、親と2人の子持ちゆえ他家の内儀よりも4倍は働かなければ、と心に決めてなりふりかまわずに働いた。

 やがて兄が鍛冶職の見習いに出た。その後、姉(養父の娘)は愛子の母が手習いや三味線、裁縫を教えて奉公へ出した。家では祖母と両親だけになった。母は、愛子を可愛がってくれる養父は大恩人だから親が夫婦喧嘩をしているときに母親のかたをもってはならぬと常々言い聞かせた。10歳ころの冬、近所の新田夜学会で勉強する機会が与えられた。

 祖母は、夜毎、愛子に聖書物語をしながら、愛子が盲人にならずに自分がなってよかったと神に感謝していた。祖母がいつもにこやかにしているので養父はもとより近所の評判でもあった。この祖母は、明治22年(1889)4月8日夜、愛子の12歳の春、眠るようにして召された。74歳だった。兵庫教会から村上俊吉牧師、数名の教会員らが告別式を執り行ってくれ、近くの墓地に埋葬された。

<母の死> 
 その年の7月13日、朝から家鴨に病気が発生し次々と死んで100羽ちかくを失った。その心労のため、妊娠中だった母は、にわかに産気づいて男児を出産したものの、20日、容態が回復しないまま死没した。母の死後は、兄は下宿屋へ、姉は実の親元へ戻り、乳飲み子と養父と愛子の3人だけになった。乳飲み子は力松と名づけられたが、半月足らずで夭折した。

<養父の再婚> 
 養父が再婚した。義母は愛子に娘らしく遊芸の稽古に通わせた。しかし、無財産の家には見込みないが娘を当てにして嫁いだと、近所で漏らしたのを聞きつけた養父は早々と離縁した。そのため伯母(愛子の父の姉)宅へ同居した。が、夜学も稽古事も中止となり、質素に過ごした。

 養父の体調も悪くなり、生活のために茶倉仕事、子守などをした。見入りのよい仕事をと、芸事を生かすことにして、口入れに頼んで大阪まで行ったものの、16歳になったら娼妓にするとの話に驚き、ひとりで大阪から兵庫まで徒歩で帰った。が、再度、別の楼へ斡旋されたものの、すぐ夜逃げのようにして家に戻った。

 こうしたことを幾度か繰り返しているうちに手足の関節が腫れて痛み出した。医師から養生するようにとの注意を受けたが、その注意を怠ったためにひどくなり、奇特な人の世話で大神宮様へお篭りを勧められ、出かけた。が、怪しげな宗教であることに嫌気がさして翌朝、養父の家に戻った。養父も、伯母も愛子のためによかれと思う薬や治療に心を砕いてくれたが病床の身となった。

 養父には、2年前から知人の世話で2子連れの後妻がいたが、死産したり、夭折したりで養父母の心労が重なり、大阪の兄の家で厄介になることになった。が、兄は道楽をして、家族間の不和もあり、居心地がよくなかった。そうこうしているうちに養父が大阪に迎えに来てくれた。

 養父母の家に戻ったものの、一部屋しかない家の戸を開ければ、夜更けのこともあり養母は寝たままで起き上がりもせず、声もかけてくれないさびしい状態で、土間に寝ていた家鴨や鶏が騒々しく羽ばたいて迎えてくれた。

<鳥の頭上生活> 
 養父は、愛子のために土間の鶏の上に寝台を作ってくれた。藁のハカマを敷き、そのうえにござを乗せただけのベッドが出来上がり、それに布団を敷いて、愛子の居場所となった。骨と皮のようにやせ、衰弱した愛子は、この冬は越せまい、と医師の診断を受けた。

 養母は親の顔を知らないまま苦労の連続で、嫁ぎ先でも長患いの末2子を遺して夫に先立たれた悲運の状態を、養父の知人に世話を頼まれて養父と夫婦となったが、苦労は絶えず、イライラが愛子に向かうのであった。愛子は、土間の促成の寝室兼居室が逃れの場所であり、慰安の場所であった。

 暇つぶしに藁で囲った寝床に穴を開けて通行人を眺めたり、声を聞いてわが身を慰めていた。養母の連れ2子の上は女中奉公へ出ているが、下の子は3歳の女児で4人で暮らしていた。病床の身となっては手数のかかる髪の毛をすっかり切り落とされてしまった。

奥江清之助との出会い> 
 愛子は、奥江清之助によって信仰に導かれたのだが、奥江との出会いは、ふとしたことからであった。
 愛子のことで養父母が夫婦喧嘩をした。母親が屋外に逃げたときに路地で出会わせた紳士が喧嘩をなだめて屋内に入り、寝ていた愛子を「男か女か」と質問した。なかなか癒されない病のために親が悲嘆して男女の見分けがつかぬほどの頭髪状態にしてあったためだった。

 この出来事の3日後、紳士は夫人同道で金包みと菓子をもって見舞いに来た。そのとき一枚のカードに「今は救の日なり、哥後六ノ二」とあった。このことから名も知らぬ紳士夫妻はクリスチャンだなと愛子は思い、自分の祖母は兵庫教会の古い信者で、新田夜学会という多聞教会の信者によって導かれ3年ほど通ったとの会話をした。これが機縁で紳士が神戸教会員で大倉組技師・奥江清之助であることが分かり、以後、愛子は奥江を霊の父として敬慕して信仰が形成された。

<受洗> 
 求道して3年後の愛子が21歳になった明治33年(1900)3月のはじめの聖日に受洗することになった。この事を知った近所の天主教信者一家も喜びの筵に集いたいとのことで、兵庫教会からの出席者と合せて8名が愛子の枕元に、カンテラや蝋燭の明かりの元で人見牧太から受洗した。

 受洗の翌日から、愛子は文字が書けるようになった。病床であっても、救われた十字架の愛の教えを文章にすることを神の御心と受け取った。すると、不思議なことに牧師も教会員からも、諸所の病人に手紙を書くようにと依頼を受けた。手紙を出したそのうちの一人に18歳の肺を患った看護婦会の娘・まさ江がいた。

 ともに病む身で心が通じ合い、愛子は招かれてまさ江の家に泊まった。まさ江が稽古で覚えた三味線で伴奏をして愛子が讃美歌を歌う楽しいときを得た。愛子によって信仰に導かれたまさ江の短い人生が終わった。

 26歳の教員経験の青年が教会の牧師の紹介で愛子を見舞ってくれた。青年は愛子に女学校の教科書を5年分揃えて、指導もしてくれた。兵庫教会に新しく就任された武田猪平牧師は愛子の文才を認めて、和歌や俳句を手ほどきを教会員を通して勧めてくれた。愛子は『伏屋の曙』を出した。これがもとで遠方からの来訪者が手紙以外に増えた。

 あるとき、耳の不自由な苦労人の婦人が愛子を頼って来訪し、対応した養父は同情して同居させた。愛子には筆談を通しての聖書と信仰談をする役割が神から与えられた。やがて姫路へ伝道旅行に愛子は行くことになり、看護婦を兼ねて同行してくれた。愛子と起居を1年半共にして裁縫で部屋代を賄った。

 同居した婦人・英子は、33歳となり、愛子の世話で結婚した。結婚式と祝福の筵は、ムシロを囲った愛子の家で、兵庫教会から牧師と役員数名、教会員有志らが両者の家族とともに式に連なり祝福した。愛子の神のための御用は祝福されていろいろな人々との出会いを多くしてくれた。

 愛子は、いつまでの老いていく養父の世話ばかりを受けては済まないと、貸布団屋を思いついた。古着屋から7枚の布団を買い入れて始めた貸し布団屋は、旨く営業路線に乗り、義母も番頭役をするほどになった。5年間で53枚の布団に膨れ上がり、愛子の生活費と家族の面倒を見ることもできた。その後、妹が20歳になり、そろそろ愛子も部屋が手狭なので、出ることを考えていた。

 そこへ、新たに神戸女学院の購買部で学用品を売り、伝道を行う機会が与えられることになった。貸布団業で得た収益の半分は養父へ、布団は下宿屋へ売り、残りを懐にして購買部へ移り住むこととなった。

 その後、養父は自分が世話をした人から突発的発狂により死に至らしめられた。73歳だった。愛子は、父の死はさながら飼い犬に噛まれたようなものだと、悲しがった。一家の大黒柱としていたが、もう養鶏業はできなくなった。鶏舎に手を入れて2軒の貸家、愛子の部屋の半分を入り口を別にして貸室、そして少々の地代で母と妹の生活の支えとした。母はマッチ箱張りの内職を、妹は仕立物で生計を支えた。

 父の死よりも1年半前に伯母が卒中で死去した。厳しいしつけであったが、振り返れば、それらは愛子のためであった。愛子にとっては伯母に信仰を導きえたことがなによりのお返しだった。

 神戸女学院の購買部を担当することになった愛子は、多くの人々から励まされ、また愛子自身もよい伝道を行い、祝福の生活を送ることになる。教会やその他に出かけるために人力車で出かけると乗り降りが不便で事故にもあったので、愛子は自分で車椅子を考案した。

 介護車であるが、これで山のぼりも海岸にも出かけることが可能となり、行動半径も広がった。『闇より光へ』に愛子が考案した車椅子姿の愛子の写真が掲載されている。

 内村鑑三は、大正8年(1919)9月1日の日記に「神戸、座古愛子女史の新著述に附すべき序文を書いた。大いなる名誉と感ずる」と書き留めた。それが愛子の著『父』の序文である。どこで、どのような経緯で内村鑑三との接点ができたのか、調査する楽しみがある。

 大正8年(1919)12月1日から4日まで神戸イエス・キリスト教会で青木澄十郎司会の下で中田重治の説教が行われたが、愛子は、ここで中田重治に会った。具体的に何を語り合ったのかは、資料不足のままである。時を異にして好地由太郎の見舞いをも愛子は受け、ともども信仰による励ましを得合うことができ感謝であったと語っている。

 両手両足を失った中村久子は昭和5年、彼女に面会し、生かされてい るという感謝の境地に達したと回顧した。

 神戸女学校内で購買部を設けて伝道と購買で19年間、構内で生計を建てていたが、2年後の新校舎設立になるとともに愛子は立ち退くことになる。それにあわせたかのように愛子は洗髪用洗粉を発明した。それを、主婦之友社(創業者・石川武美)が聞きつけて5袋購入し、試したのちに、主婦之友社の代理部で売り出すことになった。名づけて「ぬれがらす」。顔洗粉「ひばり野」も考案した。

 昭和6年1月号の『主婦之友』誌上に愛子のことが掲載され、愛子のもとに手紙が届き、クリスチャン志望者が増えた。

 著作に『煩悶苦悩』、『伏屋の曙』、 『微光』、『闇より光へ』 (自叙伝)などがある。詩人で英文学者の日夏耿之助に見出され、『現代詩体系3』に作品の一部が収録された。
出 典 『闇より光へ』  『煩悶苦悩』 『キリスト教歴史』 『中田重治傳』 『内村鑑三全集25』 『内村鑑三全集33』 

村上俊吉 http://www.nogami.gr.jp/rekisi/sanda_sizoku/14_murakami/murakami.html
神戸教会年表 http://www12.ocn.ne.jp/~kbchurch/contents/nenpyou.html
中村久子女史年譜 http://www.nakamura-hisako.co.jp/1_nenpu.htm
神戸女学院 http://www.kobe-c.ac.jp/
奥江清之助 http://likeachild94568.hp.infoseek.co.jp/gunzoa.html

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