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留岡 きく子(菊子)       明治7年(1874)10月4日〜昭和8年(1933)4月19日
 留岡幸助(牧師、社会事業家)の後妻。
 愛媛県喜多郡天神村に寺尾家の長女として誕生。本名は菊子。

 岡山県高梁の順正女学校(創立者福西志計子)に学び、東京に出て巣鴨家庭学校の保母となる。

 明治34年(1901)6月1日に留岡幸助と結婚。この年の10月に家庭学校は慈善事業師範学校を開設して従事者の養成をはかるなど事業を拡大し、明治39年(1906)7月には財団法人に改組した。翌年3月には園芸部、明治42年9月には木工部、西洋洗濯部を設けて家族舎による家庭的生活と実物・労作教育を進めて少年感化の実を挙げた。

 このように感化救済、地方改良のみならず、さらに大正3年(1914)には北海道社名淵に教育農場を開き、次いで分校(現在の北海道家庭学校を開校するなど、夫の社会的実践を支えた。

 先妻夏子との子6名(5男1女)を育て、さらに4男3女をもうけた。東京の霊南坂教会で葬儀が執り行われた。
順正女学校  明治14年(1881)に岡山県高梁に設立されたキリスト教主義の女子教育機関。設立者は高梁小学校付属洋裁所教師の福西志計子がキリスト教迫害のもとで職を終われたことにより、明治14年に私立裁縫所を設立したことが出発である。その後、文学科を併設し、高梁教会を始め有力者の協力の下に校運は順調に発展した。が、喪失者の急性に伴い高梁教会牧師が校長を兼務、のち県立高等女学校となった。
家庭学校  留岡幸助によって明治32年(1899)巣鴨に創設された少年教護施設。内外の民間の協力を得て約3500坪の用地を購入し、11月23日に非行少年のための感化教育施設を開設した。少年感化の方法はキリスト教を基本としてもっぱら職業を授けて徳育知育体育の発達をはかり、また少年を家庭的愛情のうちに薫陶することを目標とした。そのために感化院といわずに「家庭学校」と称したのである。
出典 『キリスト教歴史』 『留岡幸助著作集5』 『女性人名』
http://www.abashiri.pref.hokkaido.jp/ab-tssku/portal/engaru/03_03.htm