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 福西 志計子(しげこ)   弘化4年(1847)〜明治31年(1898)8月21日
 明治期のキリスト教教育者。高梁順正女学校創立者。
 本名しげ。

 備中松山藩士福西伊織の娘。7歳で父と死別したため、母の手で育てられる。隣家の藩儒山田方谷のもとで勉学に励んだ。明治8年(1875)岡山裁縫伝習所に学び、翌9年高梁小学校付属裁縫所教師として採用される。

 同12年(1879)金森通倫、中川横太郎らが、翌年に新島襄がキリスト教伝道に高梁を訪れたことでキリスト教に開眼して、キリスト教婦人会の組織、創立に尽力した。しかし、キリスト教に対する反感から世人の迫害を受け裁縫教師の地位を追われた。

 そこで志計子は、自ら私立裁縫所を開くことを決意し、明治14年(1881)キリスト教の色彩の濃い女子教育機関を設立した。同18年(1885)文学科を併設して校名を順正女学校とした。高梁教会の強力な支援のもとに校運は順調に発展した。生徒数の増加と有力者の協力を得て、同29年(1896)には伊賀町に新築校舎を落成するに至った。

 しかし、明治31年(1898)志計子は病死した。52歳であった。

 志計子の後を高梁教会牧師伊吹岩五郎が校長を兼任したが、明治41年(1908)、県立高梁女学校となった。

 時代が移り変わり、現在では高梁教会ともども美観地区として観光名所の紹介を受ける学校所在地である。志計子が知ったら感無量であろう。
<やりかけ>
出 典 『キリスト教歴史』  『女性人名』  
福西志計子 http://www.takahasi.okayama-c.ed.jp/yuusyu/sub21.htm
順正女学校 http://www.takahasi.okayama-c.ed.jp/yuusyu/sub20.htm
高梁市 http://www.city.takahashi.okayama.jp/tradition.html
順正寮跡 http://www.optic.or.jp/takahashi-cci/kankou/kankou_d.html