留岡 幸助 元治元年(1864.4.9)3月4日〜昭和9年(1934)2月5日 |
日本組合教会牧師。社会事業家。家庭学校の創設者。
理髪業を営む父・吉田満助の次男として高梁に生まれた。生後まもなく留岡金助・勝子の養子となり、8歳で漢学塾に学び、小学校に通う。
明治13年(1880)にキリスト教を知り、高梁教会で上代知新から受洗した。漢学の塾に通っていたころ武士の子とけんかして、翌日、父が武家屋敷に呼び出され出入り禁止となったために激しい折檻を受けた。のちキリスト教の伝道で「士族の魂も町人の魂も赤裸々になって神の前に平等」の精神を信仰に表明して貫いた。
幸助は、霊南坂教会の第7代目牧師として明治30年(1897)6月に就任して(1899)5月までの約2年間働いた。就任した年の11月7日に本間俊平が幸助から受洗した。
先妻・夏子も高梁教会で受洗して神戸女子伝道学校を卒業して夫の伝道、社会事業に苦楽をともにした。北星学園短期大学学長・留岡清男の生母である。後妻・きく(菊)子は高梁順正女学校を卒業後、幸助の巣鴨家庭学校の保母をつとめ、先妻の6人の子と、さらに四男三女の生母として夫・幸助の教育実践や社会事業を支えた。
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出 典 |
『キリスト教人名』 『『キリスト教歴史』』 『霊南坂教会100年史』 『キリスト教社会福祉思想史の研究』 |
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