本間 俊平      明治6年(1873)8月15日〜昭和23年(1948)8月13日
 社会事業家。信徒伝道者。

 新潟県三島郡間瀬村に父・孫四郎、母・ジョンの長男として生まれた。
 峰岡小学校に入学し、10歳のときは中等科に進み、県から学業優等生として表彰された。しかし、家庭の貧しさのために学校を中途退学して大工の徒弟となった。

 明治24年(1891)18歳のとき、押川方義、植村正久、原田助らの伝道集会が仙台の松島座で開催された。そのとき、俊平は大工の一行を連れて伝道の妨害をして、話が聴き取れない状態に陥らせた。ところが、原田助が「自分たちは殺されても、諸君を不安恐怖の火の中から救い出そうとされた主イエス・キリストの流し給える血を証明せねばならない」と、恐れずに果敢に語る態度と、他人のために涙を流して祈る姿が若い俊平の心に焼きついた。

 古本屋で聖書を見つけ、また仙台宮城教会牧師・三宅荒毅の教会に足を運んだ。当時の三宅荒毅は、明治21年にアメリカ留学を終えて牧師として仙台宮城教会牧師に迎えられた新進気鋭の有能な牧師であった。東華学校の教師もつとめ、そのころ川本なつと結婚した。明治24年からは天満教会牧師となった。

 俊平は、明治26年(1893)、才幹を認められて東京大倉組みに勤務。そこで、技師・奥江清之助と親しくなった。奥江清之助座古愛子を信仰に導き生涯にわたって霊父として愛子に慕われた。

 奥江の熱心な祈りと導きにより明治30年(1897)11月7日、留岡幸助が牧会をしている霊南坂教会で留岡幸助から受洗した。これまでのキリスト教に対する迫害や強情な振る舞いは、これから到来するであろう本間俊平のための通るべくして通らされたような道のりだったといえそうだ。

 俊平は留岡幸助牧師にならって新婚間もない家庭に出獄者を同居させて、彼らの更生の道を助力した。

 
<やりかけ>中田重治は、大正8年(1933)10月11日からの内村鑑三とともに岡山における再臨運動講演会に出かけた。岡山で20余年来の旧知の本間俊平と再会する機会を得て、両者、懐旧を禁じえなかった。本間は、弘前で工藤玖三とともにリバイバルを受けた。中田久吉とも親しかった。(p.286)
出 典 『キリスト教人名』 『中田重治傳』 『私の教育』
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