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  安川 亨         生年月日不詳〜明治41年(1908)3月30日
 明治初期の長老教会、日本基督一致教会牧師

《生い立ち》
 下総国法典村の豪農・栄之助の子。六郎または周作と称して、のち亨と改名した。東京の高橋石斉の養子となり、のち安川姓に戻った。

《受洗》
 ギリシャ正教とカトリックについて学んだのち、明治6年(1873)8月にタムソン,D.から受洗して、日本基督公会の一員となった。しかし、その直前に高橋六郎の名で司法官吏のために聖日礼拝に出席不能の旨をタムソンとバラ,J.H.に訴えた。

 同年9月、東京基督公会(新栄教会)設立者のひとりとして活躍した。しかし、やがて東京第一長老教会に転会して明治11年(1878)4月に牧師の准充を受けた。芝露月町()教会と品川(大井町)教会を兼牧した。

《聖書の差出》
 亨は、明治16年(1883)に 好地由太郎の実姉で養母の・つるに依頼されて刑務所(集治監)に聖書を差し入れた。それがきっかけでつると夫の新聞記者の好地重兵衛は芝露月町(芝)教会の教会員となり、夫・重兵衛は役員として教会に仕えて、明治21年(1888)に死去した。

 好地由太郎は、18歳のとき強姦・殺人・放火・等々の罪で鍛冶橋監獄に入獄していたときに、同房の青年に「聖書を読め」と言われたのがきっかけで、母・つるに聖書の差し入れを頼んだのであった。しかし、キリスト教の何たるかよりも同房の青年の姿に打たれて泰然自若となり、バテレンの魔法の力によって逃亡ができるのではないという程度の関心事であった。のち、他の犯罪や逃亡を繰り返して無期刑に重刑が重なり空知集治監で囚徒として過ごしているときに看守長・原田正之助や典獄長・有馬四郎助や教誨師・留岡幸助に出会い、キリスト者となって模範囚として入獄23年目にして母・つるのもとに戻り、巡回伝道師として生涯を送った。

《板垣退助》
 亨は、明治7年(1884)、板垣退助の依頼を受けて高知県伝道を支援した。

《一致教会から除名処分》
 明治21年(1888)1月、亨は、一致教会から除名処分を受けた。そのため、築地美以教会に転じたが、さらにドイツ普及福音教会に転じて、甥の安川一(法典教会創設者)を助けて、この教会を美以派の教会にするように尽力した。

 晩年の生活については不明であるが、青山墓地に葬られているとの情報がある。
<やりかけ>
出 典 『キリスト教歴史』 『キリスト教人名』 『恩寵の生涯』