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  野口 幽香       慶応2年(1866)2月1日〜昭和25年(1950)1月27日
 明治〜昭和期の幼児教育者、社会事業家。

 野口幽香(ゆか)は、慶応2年(1866)、6人きょうだいの2番目として現在の姫路市にあたる播磨国飾東郡姫路清水29番屋敷に生まれた。父・野口野(いやし)25歳、母・くり21歳のときだった。

 父・野口野は、士族階級に属していたが微禄の5人扶持だったために、経済的に楽ではなかった。しかし、武よりも文に優れ、「廉潔を重んじる一克者で、お世辞を知らぬ世渡りの下手な人」、母・くりは、儒者の娘で「性質が明るく、楽天的で、喜んで人を迎える」人であった。幽香は、こうした両親のもとで伸びやかに育った。

 明治4年(1871)、5歳になった幽香は姫路の総社(鎮守社射楯兵主神社の神官の家)の寺子屋に通い始めたが、旧態依然たる読み書き算盤のみでは、と学問に理解の深い両親の配慮で田島藍水の塾に通った。

 田島藍水はクリスチャンだった。
 自分の娘を沢山保羅と結婚させている。沢山保羅は山口県出身で、日本女子大学校創立者の成瀬仁蔵の先輩にあたり、共に大阪の梅花女学校創立運営に携わった近代的役割を果たした進歩的牧師であった。

 田島の塾で幽香は漢学と英語を学んだ。その教材は『智環啓蒙塾課初歩』という英漢対訳である。これは、柳川惷三が香港英華書院から出来したものに訓点をつけた明治3年活版印刷されたものであった。

 父・野は、当時、薬売りのほか写本を内職としていた。福沢諭吉に心酔していたため、福沢の写本が多かったので、幽香は福沢の『世界国尽し』等、時代の新知識に父の写本を通じて接する機会に恵まれた。

 明治5年の『学制』発布により、6年1月より姫路には8小学校が開校された。7歳の幽香はそのひとつの侍屋敷の学校に通うことになった。まだ学制が確立されておらず、教師は教育法に創意工夫の余地があり、教科書も時代に即応した新しいものが選択できた。

 幽香が当時を次のように振り返っている。
  「畳の部屋で一日手習いをしていましたが、別に離れのようになった教場があり、黒板や椅子がちゃんと備えてありました。そこへ代わる代わる行って小学校入門の『イト・イヌ・イカリ・ヰド・ヰノコ・ヰモリ』を習ったものでありました。」

 また、学校帰りに遊んだ歌として、まりつき歌を思い出している。きっと、着物の袂を振り振り、手まりつきをした幼いころを思い出したことだろう。
 おまい女房はよい女房、顔は白かべ眼は水晶、眼元、口元しほらしく、朝はとうからおきなろて、かんす(顔のこと)洗ふて、お茶たいて、四十四枚の戸明けて、隅から隅まではき出して、大かめ小かめの水かへて、ぢいさんばあさんおひんなはれ、けさの茶の子は何ににげ、ぼたもち三つの山椒味噌、よござんしょ、よござんしょ。


 幽香が25歳になった明治7年(1874)、父・野が生野銀山寮に職を得たので、幽香は生野口銀屋校に転校した。
 鉱山に技術指導に来ていた外国人に初めて出会い、外国人の子どもらと遊び、彼らの生活に眼を見張る幽香だった。とくに野口一家はフランス人ムーセ一家と親しくなった。お雇い外国人ムーセは、非常に親切で、夫人はお得意のお国自慢のフランス料理をはじめ、イチゴミルクやチョコレートなどを作って、幽香や弟孫市らにも分け与えてくれた。

 ムーセ夫人から幽香の母・くりは編物を習った。これが後年、夫と死別後、小学校で編物を教え、生計を立てるもととなった。

 明治8年、野は生野銀山寮を辞し兵庫県学区取締となり、幽香も姫路に戻った。当時、9歳の幽香は、教員伝習所付属小学校に転校した。県視学としての父が持ち帰る百日草、天人菊、ペルシャ菊など花の種を蒔いて、育つのを喜んだ。

 後年、植物を愛する幽香の心と、成長を楽しむ幼稚園教育に結びついていくのが想像させられる。

 明治11年、進歩的な父の勧めで男子校である姫路中学校に入学した。
 当時教育界が女子教育の向上に努めていたことと、父が中学に関係していたこともあり、進学は意外にも簡単に許可された。

 しかし、当時は儒学の教えの影響もあり、たった一人の女子生徒に男子は誰も口を聞かず、学校行事も伝達されず、周囲が浮き上がってしまう状態で勉強どころでなかったので、一年足らずで退学した。12年9月17日付で姫路中学校から優等賞を受領した。三等賞であった。

 中学を退学後、裁縫塾・野尻芳惷のもとで一年半の裁縫修行に専念した。ここでの厳しい修行はのちの幽香の社会事業に大いに役立った。

 明治14年(1881)6月30日、父・野の明石転勤に伴い、明石に移住した幽香は15歳の竿期でもあり、花嫁修業を始めた。が、心は父の周りにある『米欧回覧実記』等の貸し本を読み、海外に刺激されていった。父は翌年、兵庫県学務課専務となり神戸に移住した。

 そこへ、父が「お茶の水」から赴任してきた教師の立派さに驚き、その話を幽香にした。幽香はぜひとも「お茶の水」入学を父に願い出た。しかし、当時の幽香には縁談が進んでいた。野口幽香に起こった縁談が幸か不幸か破談となった。幽香はこのため希望通りの進学が可能となった。

 父・野に励まされながら、家事から一切を開放されて入学試験に専心し、幽香は県庁で受験した。3人の受験生のなかで幽香だけが合格し、東京女子師範学校受験資格を得て、神戸から汽船横浜丸に父と共に乗船した。

 幽香、18歳の明治18年(1885)8月の末のことだった。同年9月2日、幽香は東京女子師範学校を受験し、晴れて東京女子師範学校生になれた。

 幽香の在学した明治18年から23年は、あたかも欧化の風潮が吹いていたときである。幽香が入学した東京女子師範学校は森有礼が東京師範学校の監督となり、男女両師範学校の合併が断行されたために東京師範学校女子部と改称されたのであった。

 女子部の生徒は洋服を着用して課業を受け、華やかなダンスが師範学校の講堂で繰り広げられるなど、幽香にとっては眼を見張ることばかりだった。寄宿舎も洋式となり、畳が消え寝室はベッドになった。在学中に高等師範と昇格し、男子同様の扱いを受けた。こうした過程に対して宮川保全(共立女子職業学校創立者)は、憤然と退職し、私立の学校を鳩山春子らとおこしたのであった。

 幽香は入学以来4年間、常に2、3番から下ることのない成績を通していたが、15人中5番に下がったことがある。その原因は19年(1886)12月11日、父・野が46歳で肺炎のために死没したことにある。続いて、21年(1888)11月17日、44歳の母・くりとも死別したことなど精神的打撃の大きさによったのだと思われる。

 幽香の失意落胆を慰め救ったのが、級友の塚本ハマだった。欠席した時は講義の筆記を清書して渡すこともしてくれたが、孤独な幽香を教会に誘ってくれもした。これが動機となって幽香は明治22年5月、本郷森川町の講義所で大阪教会牧師の宮川経輝より受洗した。

 幽香は教会で村上直次郎(後年、東洋史専攻の東京大学教授、上智大学総長など歴任)と出会い、相思相愛の仲となった。しかし、年上の女と結婚することを許さなかった村上家の反対に押されて淡い清らかな恋のままで終わった。

 東京女子高等師範学校第一回卒業式が、明治23年4月1日、男女合併の卒業式が挙行された。海軍楽隊吹奏のもと純洋式の作法で証書を受けた。これが最初で最後の男女合併の卒業式だった。幽香が卒業生総代として答辞を読んだ。

 3月の卒業式の写真がお茶の水女子大学図書館に保存されている。

 ちなみに明治23年三月調査の高等師範学校第四学年試業評点一覧表(女子師範学科卒業生)によれば、安井てつ(後年、東京女子大学学長)が首席の成績87点を修めている。幽香は86点で次席である。年齢は13名のなかで年長で24歳。安井てつは習字や図画は苦手だったのか70点であるが、幽香はそれらは80点、90点だった。幼児教育者として幽香が生涯を尽くすために、これらにすぐれていたことは望ましいことだった。

 卒業と同時に、幽香は母方の里に預けてあった10歳の妹を手元に引き取り、神田北神保町に住んだが、ほどなく下谷区西黒門町22番地に移り、母校女高師付属幼稚園に助教諭として着任した。俸給20円。ここから幽香の幼児教育時代が始まる。

 明治9年に創立された日本でもっとも古い幼稚園の助教諭として4年の歳月が流れた。華族女学校にも幼稚園が創設される運びとなり、幽香は女高師付属の助教諭の資格で幽香が選出され、異動となった。幽香のほかに森島峰がいた。

 森島は津田梅子の世話でアメリカ西海岸でスラム街の幼稚園教育を勉強し、帰国後、麹町平河で幼稚園を一年余り開設後、華族女学校付属幼稚園に就職した。

 幽香らは、華族女学校付属幼稚園に通勤途中、朝夕、道端で子どもらが地面に字を書いたり、駄菓子を食べたりして遊んでいる姿を見ていた。一方、勤務している幼稚園児はどうかと言えば、長袖の着物姿の子どもに6〜7人の付き添いがついて来る状態で、「お水」と言えば水係が、「お菓子」と言えばその係が子どもは動かぬまま付き添いに命令するありさまだった。

 付属の園児と通勤途上の子どもらとの落差に対して、何かをせねばと幽香は森島とともに立ち上がった。いつも通っている番町教会の宣教師ミス・デントンに協力を求めた。ミス・デントンの協力のもとに音楽会が開催されることとなり、700余円の純益を得た。ミス・デントンは、のちに同志社に移り、教育活動に多大な貢献をした。明治31年(1898)、幽香が32歳のときだった。

 純益を育児曙星園と二分して、これを資金として活動が開始された。

 路上の子どもらにフレーベルの理想どおりの幼児教育を施したい夢の実現のために一歩前進した。が、諸般の事情で華族女学校付属幼稚園を辞職できずにいたので専任保母として平野まちを採用し、二人は隔日出園とすることで、明治33年(1900)1月、麹町下6番地の借家から出発した。

 募金で得た資金は幼稚園経営に1年間程度のものであったために、幽香らは広く世間に理解をしてもらい寄付を仰ぐことにして、「私立二葉幼稚園設立主意書」を書き上げた。

 社会一般の程度を高め、罪悪を未然に防ぐためには根源的に「予防の一オンスは治療の一ポンドに優る」ものであるから、社会改善の上にも有効であると記し、世の教育慈善家に積極的な協力を求めた。

 幽香らの趣旨に賛同した支持・協力者の積極的な支えにより定期寄付金を毎月得ることが可能となり、本格的に「貧民幼稚園」開始が可能となった。

 予防の1オンスは治療の1ポンドに優る、と訴えた募金活動は、幽香が上流社会の人々を慈善事業に結びつけていこうとした意図として成功した。

 食物、衣服に事欠き、帰る家といってもただ雨露をしのぐに過ぎず、無教育のまま日々の生計に追われる両親から省みられることなく、まったく放棄されたままの下層階級の貧民の子たちを見るにつけ、幽香は上流階級の子どもとの余りの落差に心を痛める率直なことばで訴えたことが効を奏したといえる。

 幽香は、明治33年(1900)6月22日付で文部省から外国留学生に任命を受けた。34歳のときだった。万全の健康状態で渡米しようと持病の子宮筋腫の手術を受けたところ、失敗に終わり、長い入院生活を送った。文部省のほうでも幽香の才能を惜しんで留学時期の延長を認めてくれたのであったが、幽香は結局、留学を断念した。

 きっと、ともに二葉を開設した森島峰がスラム街の教育に明るかったように、その勉強をしたかったであろう。38年5月30日、幽香は華族女学校教授に任じられた。

 明治39年3月10日(1906)、保育の場を四谷鮫ケ橋に移した。当時は下谷万年町、芝新網町と並んで三大貧民窟の一つと言われたところである。ここで本格的な「貧民幼稚園」を始める。

 四谷に移動すると、まったくスラム街の子らだけに、朝から「弁当、弁当」と言って喜ぶ弁当の中身は煮物汁をかけただけのもの、魚の皮、塩だけが珍しくなく、園で出す二時半のおやつは家で食べたことのないものばかりだった。それは、パン屑を油で揚げたり、サツマイモ、お汁粉程度であったが。

 当時の園児の両親の職業は、以前に開園した地域の園児の親と大差なく、父親は車夫、大工、指物師、宮内省小使い、裁判所小使い、ローソクの芯巻き。母親は巻煙草、髪結い、仕立物、煎豆、焼芋などで両親が共働きであった。巻煙草の手間賃は100本仕上げて1千5厘。一日2000本も巻けず乏しい収入であった。

 普通一般の幼稚園では「幼稚園保育及び設備規程」に定められている5時間以内の保育時間であったが、ここでは午前9時から午後4時までとしておいた。しかし、母親の仕事の都合で朝7時ごろから夜遅くまでが実情であった。

 とにかく野放しのいたずらっ子が多く、規則に縛り付けずに緩やかな教則で進めた。月謝を取るつもりはなかったが、無料では親が依頼心を強めてよくないとの判断から、一日1銭を徴収した。ちなみに明治42年に開園した大阪の愛染橋保育所は2銭だった。

 粗野な言葉使いの「てめぇ、おめぇ」から「あなた、何々さん」と先生を見習って変化してきた。「先生がきやがった」から「先生がきやがりました」と、自分で考えて言い直す子も出てきた。

 園児全員の写真を見せても他人の顔はわかるが、自分の顔を知らない状態だった。自分の名前も正確には知らなかった。お弁当の時間に何が一番おいしいかと問えばたいてい「さけ、たら」で、なかには牛肉と答えたが、牛肉とは固くて噛めない肉と認識していた。

 今で言う一日里親のように、貴族の友人の家などを訪問する機会をつくるなど、園外保育を積極的に取り入れた。また、園で入浴させたり、親との懇親会、家庭訪問などをこまめにすることで家庭ぐるみ生活を改良していくことにも心を配った。

 加えて、小学校との連絡を密にして、卒園後の園児の配慮も忘れなかった。昼間工場に勤めて家庭教育を受ける時のない少女らの切実な願いから、夜間裁縫部を設けた。幽香が中学校を中退して裁縫塾で厳しく修行した成果を生かし得た。

 今で言う学童保育も行った。図書室を設けて小学生らに自習時間を持たせ、少年少女クラブを設けて読書会、園を中心として自治活動など、地域の実情に合わせた社会事業を推進した。

 幽香らの仕事に賛同された赤坂病院院長のホイットニー、回生病院医員木沢敏が自ら進んで病児の世話を引き受けてくれた。貧しい子らを愛のまなざしで見つめ、治療に当たっているホイットニーらの姿に感動し、病院で看護婦として働いていた女性が「二葉幼稚園」にはいった。藤井琴である。幽香は徳永恕と同じように全幅の信頼を寄せた。

 明治40年、幽香の後を受けて後に大黒柱となる徳永恕が保母手伝いとして入園した。この年の4月25日、幽香は学習院教授幼稚園主事を命じられている。43年には徳永が主任となって二葉を背負った。

 大正5年、二葉幼稚園を二葉保育園と改称した。大正11年3月、28年間在職した学習院の幼稚園を退職した。昭和10年、野口は70歳になり、園の一切を最も信頼している徳永恕に託した。

 クリスチャンとして聖書研究にも熱心だった幽香は、明治43年保母たちのために聖書研究会を開いた。これが、のちに独立して二葉独立教会に発展した。戦後、桜山教会と合同して 東中野教会となった。それまで幽香は信徒代表(長老)として教会奉仕に尽くした。

 昭和17年4月17日、皇后陛下の思召しにより宮中において修養講和の御進講を開始。晩年の幽香は昭和20年5月21日あたりまで宮中に上がった。

 戦後は、戦災孤児収容に心を費やし、昭和24年(1949)に二葉保育園本園に乳児部保育部母子寮を再開させ、その後は徳永恕や藤井琴がその思いを十分に果たした。

 幽香は登山を愛し、高山植物を愛で、文学、芸術に明るく、有島武郎と往来し、俳句を楽しみ、清元を聴き、ろうけつ染をするなど心豊な生活を送った。岩手山情報によると、明治39年(1906に)に「日本山岳会の女性会員野口幽香が登山」とある。

 

 第一回母性保護デーの成功のために関係者は種々の準備をしていたが、幽香もまた得意の習字や句作で協力した。山室機恵子から頼まれて絵心のある女性を黒田清輝などにも紹介したことがある。

 母子福祉に生涯をかけた山高しげりは自叙伝のなかで幽香がそれ以外にも中元用の大人用の母性保護手拭いの揮毫をされたと述べている。

 生涯独身で上落合の幽香庵で84歳で死没。 1月30日、由木康牧師の司式により東中野教会で葬儀が執り行われ、お棺が教会を去るとき、とっさに進み出て恭しくお棺を担いだ人がいた。ときの法務大臣だった。
出 典 『野口幽香の生涯』 『東中野教会八〇年記念誌』 『キリスト教歴史』 『キリスト教人名』 『女性人名』 『社会事業』 
『山高しげり』 『機恵子』
女子高等師範学校 http://www.lib.ocha.ac.jp/tenji/oe20.htm
ヒストリーof岩手山 http://www.highway.pref.iwate.jp/mount/column/
東中野教会 http://members.jcom.home.ne.jp/uccj-nishitokyo/01/01103_higashinakano.html
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