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 藤井 琴         明治21年(1888)3月17日〜昭和58年(1983)6月25日

大正〜昭和期の社会事業貢献者。

 野口幽香の働きに感動して二葉幼稚園に就職し、野口幽香の片腕として徳永恕とともに尽力した。また、日本における女性保護司第一号でもある。

 琴は、栃木県那須郡金田村市野沢で、父・渡辺伝十郎と母・ミネの5人きょうだいの末っ子として誕生した。父は琴の生まれる6ヶ月前に死亡しており、母子家庭として育つ琴の取り巻く環境は厳しいものがあった。

 渡辺家は代々徳川家直轄地市野沢村の庄屋で、墓石は天和元年(1681)からのものが現存し、家も150年以上も過ぎた(原著者が執筆した1986年時点)昔の状態のままの平屋建てで広々としたつくりの家だった。

 「母屋の縁側と土蔵との間に木戸があって、その木戸から罪人を入れて、庄屋様が廊下に座って取り調べていた」といわれている家屋で、さらに参勤交代の行列も通り、忙しい家だった。そうした渡辺家の大黒柱を失った母ミネは気丈な性格で、街道沿い側の土蔵で雑貨商を営み、5人の子どもを育て上げた。

 琴は、明治37年(1904)、村立金田尋常高等小学校を卒業し、上京した。明治35年に創立された「東京戸板裁縫学校」に入学し、寄宿舎生活を送った。そのころ松井須磨子は、明治35年4月姉みえの婚家七沢安太郎を頼って上京し、戸板裁縫女学校に入学した。琴と机を並べたかどうかは不詳である。


 戸板の名物「戸板の早縫い競争」に見られるように創立者・戸板関子の教育方針である実学重視の教育を受け、家政学に加えて国語・数学・和歌・家政実技を中心として、翌年2月に全課程を修了し、本科第11回生として卒業した。戸板裁縫学校における実学は、のちに出会う野口幽香がそうであったように、琴の人生にもよい影響を与えることになる。

 さっそく琴は、卒業と同時に苦労をかけた母のもとに帰郷したが、これからの女は自立した生活を送るために手に職をつけるようにとの母の勧めで、さらに明治38年4月、栃木県那須郡看護婦養成所に入学した。その年の8月27日、優等生として答辞を読み、卒業した。

 明治38年10月24日、那須郡高林村の山間に位置する黒田原隔離病舎へ着任した。当時の伝染病隔離病舎での赤痢患者は絶食のまま一定期間置かれる過酷な状態であった。翌39年1月、那須郡那須村の杉江医院に勤務する。

 琴の生まれ育った那須野が原では、官有地貸下げによる私的開墾が、明治13年8月の三島通庸主宰による肇耕社への貸し下げ許可、同年9月の那須開墾社への許可に始まった。

 明治25年4月、本郷定次郎と妻・秀子が青木周蔵が同じキリスト者であるとのことだけで青木開墾に入植して那須野孤児院曉星園を開設した。だが、あまりの過酷さと先住民の迫害により、その年の暮れ12月、三島開墾地に移動し、那須野孤児院曉星園を継続運営することに変更した。

 秋元国子は、本郷定次郎の妻・秀子の母である。
 娘秀子が本郷定次郎と結婚して栃木県那須野原に児童養育施設「育児曉星園」を経営したが、その運営半ばで夫婦とも死没したため、秀子の母・秋元国子が施設に残された100名の園児と3人の孫とを連れて上京し、神田美土代町に曉星園商業部を設立して、薪炭を商いながら園児を養育し、すべて職につかせた。明治期の社会事業家である。

 国子は、信濃国小諸藩士山内利右衛門の五女で、医師秋元収蔵の妻であった。74歳で死去した。

 三島自身が留学中に入信したキリスト教徒であることから本郷定次郎の事業に理解を示した。この過程において赤坂病院ホイットニー医師の熱い支援を受け、那須野孤児院曉星園運営、三島村講義所におけるキリスト教宣教活動が徐々に成果あるものとなっていき、新聞にもしばしば記事として取り上げられるように至った。

 琴もこれらの話を見聞きして育ち、次第に厳しい母子家庭と重なり、自身が肋膜を患ったことなどもあり、キリスト教に関心を持つようになった。明治40年3月17日、20歳(満19歳)の誕生日にメソジスト西那須野教会においてデビッドソン宣教師より受洗し、以来、聖書と明治39年出版の『基督教三綱領』を手放すことはなかった。

 
 明治40年4月、これまでいた杉江医院での一年の実務を終え、産婆養成所に入学し、翌年1月、西那須野中井病院で実務修行に励んだ。

 明治42年(1909)10月、琴は内務省の産婆試験に合格した。かつて那須野が原で見聞し、尊敬していたホイットニーの経営する赤坂病院に勤務することになった。

 明治44年、琴はホイットニーの指導のもとに恵まれない人々の看護に献身する日々を送っていた。その施療患者のなかに、小さな子どもがいた。一見してスラム街の子だとわかる子どもが数人、いつも付き添人に連れられて来ていた。

 琴は、この子どもらを看護しながら、いったい、どこからこの子たちは来るのだろうかと関心をもち、書類を調べたところ、四谷鮫ケ橋の二葉幼稚園の子どもとわかった。

 琴はすぐに四谷鮫ケ橋の二葉幼稚園に出向いて、そこで初めて野口幽香と森島みねを知り、またそこで働く保母たちをも知った。野口幽香と森島みねの人格、また献身的な仕事に敬意をもち、心酔していくのだった。早速、琴は保母学校に通い、ホイットニーが明治44年春に帰国すると同時に、赤坂病院を退職し、同年5月、二葉幼稚園の保母兼看護婦として就職した。

 気の早い積極的な琴の行動力には驚かされるが、二葉幼稚園としては正規の保母の勉強と看護婦としての資格と経験をもつ琴が自ら転職してきたのであるから非常に心強かったであろう。現に琴が就職して以来、衛生面では相当改善された。

 琴は4畳半の部屋を与えられて自炊をしながら園児の世話をした。野口幽香は子どもたちがスラム街の子であることから歌や遊戯以上に清潔であるように考えることを保母らに要求した。そのため琴は朝起きると、まず門の前をきれいに掃き掃除をして、エプロンに鼻紙入れて園児を迎え入れた。

 幼稚園では、保育料とともに貯金もさせていたようで、1銭のうち5厘をおやつ代に、残りを各園児の貯金に回した。中には余分にお金を持たせる場合にはそれも蓄えておき、卒業のときに新しい着物の一枚も作ることができるように配慮をした。

 また、土曜日には入浴もさせた。その場合、世話係として母親3人を頼んだ。親たちは廊下などの拭き掃除をして銘々が後から入浴した。幼稚園としては母親たちは内職を休んで園児の世話をしてくれるので賃金として10銭を払った。

 夜は、母親らはぼろつぎ等の内職をもって幼稚園での集会に参加した。琴は東京戸板裁縫学校を出ており、裁縫教師の資格もあったために二葉幼稚園としては貴重な先生だった。きっと、母親らとの話も弾んだことであろう。

 野口幽香は、聡明な琴にもっと看護法を深め更に社会問題の勉強もしてもらいたいと願い、二葉在籍のまま泉橋慈善病院に看護法実習に6月間出向させた。その病院は現在の三井記念病院である。男爵三井八郎右衛門が貧困にして医薬を得るのに困難な病人のために施療機関が急務であるとこと認識して設立した病院である。

 さらに琴は、大正7年(1932)、大阪の愛染園にも乳児保育の実習に出向した。愛染園は富田ヱイが夫・象吉とともに運営していた。続けて大原孫三郎関係の救済事業研究所(大原社会問題研究所)にできた社会事業職業養成所でも生徒となり、河上肇、森戸辰夫男、大内兵衛らから学んだ。

 琴は、愛染園において貧困者と寝食をともにし、南京虫やしらみにも耐えうるほどになり、どん底生活になっても何ら恐れることがないほどにたくましくなって二葉幼稚園に戻った。

 大正8年8月31日、伊豆大島の藤倉学園に知的障害児の研究と学園開設の手伝いのために二葉を一時退職して翌年3月まで勤める。野口幽香が「琴さんを貸してあげる」と出向を認めた。

 藤倉学園で研修を積み、二葉に戻ると、東京府社会課児童保護委員に推挙された。強く懇望したのは三井久次判事であり、推挙したのは野口幽香であった。

 小崎弘道の牧会する霊南坂教会の教会員である三井久次は、二葉幼稚園にもしばしば出入りした。ときには、明治41年(1908)9月死亡の娘・愛子の追悼記念日を二葉の園児とともにもちたいと、幼い生喜男を伴ってお菓子持参で訪ね、園児たちと交流をもつことがあった。

 三井久次について琴は述べている。
 三井久次判事は、少年判事官として法廷の高い裁判官席から法服の帽子を被らず、少年被告人をていねいに調べていた。児童保護委員(琴)は、被告人席の横の弁護人席に座って審理に立ち会った。

 三井判事は丁寧に時間をかけて審理するため立会検事はよく途中で中座した。審理過程で親や仕事のことで疑問が生じると家庭調査や勤め先、引き受け先などの調査を児童保護委員に依頼された。琴は児童保護委員として依頼を受けると調べ、報告をした。ときには東京府児童鑑別委員会低能担当委員(当時の呼称)の石井に一種の審査を依頼した。

 石井とは、現在の国立市保谷にある知的障害者施設の滝野川学園創立者石井亮一のことである。石井は三井判事の依頼に対して無報酬で対応して三井判事を困らせた。

 三井判事の判決はたいてい執行猶予で、被告人の犯罪を犯す心理状態を把握していた。立ち直りを期待して、簡単に鑑別所送りをすることなく審理を丁寧にした。親は朝から夜遅くまで裁判所の廊下で待たされるために、熱意に感謝しつつも迷惑でもあった。また、余りの丁寧さのために一日3件の審判をするのがやっとのことすらあり、書記が疲労のために病気になることもあった。

 しかし、三井久次は丁寧な審理を通して、やがて少年法(大正11年)公布に心血を注いだ。世間の評判は高かったのだが、丁寧な仕事が災いして行政事務に遅滞を招き、大正13年(1924)6月30日、上席少年審判官の職務を解かれ、普通の審判官に下げられた。

 琴は、少年法公布と同時に東京府社会課児童保護委員を退職し、司法省東京少年審判所少年保護司となった。少年保護司8人中紅一点で、琴は日本で最初の女性の保護司第一号となる。琴は、三井の命令で主として少年よりも少女を任され、ときには島送りの少女らを小笠原諸島まで船で送っていくこともあった。

 大正13年12月31日、琴は藤井善治との婚姻届を出した。
 藤井善治は、二葉幼稚園で徳永恕のもとにボランティア活動をしていた。藤井は霊南坂教会の会員であったことから三井久次との関係もあり、より親密な恋愛感情が育まれ、婚姻届に至ったのであった。善治39歳、琴36歳であった。

 善治の家は、元尾張藩徳川の家臣であったが、参勤交代で江戸に上り、のち平民として江戸に住み着いた。善治の父は土木事業を営んでいたが、仙台で病没し、母子家庭となった。母親は善治の将来を案じて親戚の岩田作兵衛に預けた。善治はそこから早稲田大学商科に通った。善治が預けられた岩田作兵衛は、土木事業の成功者で、武州鉄道を敷いた人物であり、屋敷が新宿区淀橋のガスタンクのあるあたりで、通称、梅屋敷と呼ばれた。

 岩田家に大変可愛がられた善治に養子の話が持ち上がった。しかし、善治はこの話を嫌い、岩田家を飛び出し、大学を中退して日本電気鰍ノ入社した。21歳ごろの岩田は、靴をはくことなく草履で通勤したことから社内のポンチ画にされたりもした。早く腹いっぱい牛肉の煮込みが食べたいと無駄使いをせずに過ごした。

 幼児期の善治は、自分の欲しいものがあると玄関先に「家が貧乏で買ってくれない」などと張り紙をするいたずらっ子であった。が、青年時代はおしゃれで音楽を愛好し、イタリア製のチェロを買った。日本電気に入社当時は、岩垂社長が家族的だったこともあり社長宅でチェロの演奏をすることが許された。

 教会に善治が出入りすることになった動機は、霊南坂教会の小崎弘道牧師の息子と同年齢で仲良しであったこともあり、教会でオルガンを弾いていたことなどにも在る。こうしたことから二葉幼稚園のボランティア活動をすることとなり、そこで琴を知った。

 豊多摩郡落合町大字落合630番地に三軒揃った家の一角に住み、保護司活動を琴は続けた。善治の協力と野口幽香らの支援があったればこそ、だまされても慈愛深く忍耐をもって職に尽くせた。昭和10年(1935)10月12日、少年保護司を退職後、東京少年審判所嘱託少年保護司として活躍することとなる。

 昭和13年、夫善治が風邪をこじらせて死去、53歳だった。独身に戻った琴は、野口幽香や徳永恕らに協力して二葉のために陰の働きに徹した。昭和49年(1974)、86歳の琴は老人ホーム和尚園に入園し、昭和58年6月25日、95歳で死去した。

 6月29日、東中野教会で葬儀が執り行われた。東中野教会は琴が尊敬してやまなかった野口幽香が生前通った教会であり、葬儀を執り行った場所でもある。
 翌日の朝日新聞には四段抜きの記事で琴の死亡記事が出た。「福祉の母らしいお別れに多くの家族連れが参列」。

出 典 『藤井琴』 『キリスト教歴史』 『社会事業』  『女性人名』
那須地方ガイド http://www.nas.ne.jp/usr/isym/acg-aa.13-hongou-sadajirou.htm
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