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 石井筆子      文久元年(1861)〜昭和19年(1944)1月24日
 明治〜昭和期の教育者。

 筆子は父・渡辺清と母・ゲンの長女として肥前国大村(長崎県大村市)で生まれた。渡辺清は大村藩士として弟・昇(のぼり)とともに討幕派として活躍し、戊辰戦争では官軍の東海道軍軍監として大村軍を率いた。江戸城明け渡しの西郷隆盛と勝海舟の会談では、西郷の副使として付き添うなどの功労により、明治維新後は、弟の昇とともに爵位を授けられ、上京して高級官僚となった。福岡県令をはじめ各地の県令を歴任した。

 明治5年(1872)筆子は11歳のとき家族とともに上京し、国立の東京女学校(竹橋女学校)に入学した。同級生に渋沢栄一の娘・歌子(文久3年生まれ)、明治7年の3月か4月には筆子と同年齢の鳩山春子が入学してきた。鳩山春子の入学時から規則改正に伴い一段とレベルアップしたために、春子は廃校になって別の女学校へ転校するとき物足りなく感じたと自叙伝で述べている。

 ちなみに、東京女学校で学んだ生徒としては富森幽香(水口藩医・巌谷修の二女)、松岡美知子(博多藩医・松岡蓬州の娘)がいた。

 父・清は、明治8年(1875)に福岡県令に任じられたために家族とともに福岡に赴任するが、筆子は学業半ばのために東京に残り、勝海舟の屋敷内で、商法講習所(一橋大学の前身)教授ホイットニーの娘クララから英語を学んだ。ホイットニー家は聖公会の信者であったことから、筆子はクララからキリスト教の影響を受ける。

 明治10年(1877)竹橋女学校は西南戦争のため経費節減により廃止となった。
 筆子は幼少から英語、フランス語、オランダ語に堪能だった。父が長崎に在住していたことから外国人との交流の多い生活だったことにもよるだろう。フランス語は貞明皇后の少女時代に家庭教師をつとめるほどの力量だった。

 明治13年(1880)4月、筆子は皇后の命によって旧大村藩主とともにイタリアへ、次いでフランスへ留学した。

 明治17年、官吏小鹿島 果(おかじま はたす)と結婚した。鹿鳴館時代の幕開けの時代到来で、筆子も舞踏会にしばしば姿を現した。その当時のことをドイツ人医師トク・ベルツが『ベルツ日記』のなかで才色兼備の筆子の面影をしのばせる記述をしている。
 日本の一女性の出現により、すっかり魅了されたが、それは小鹿島夫人で、自分が今までに出会った最も魅力ある女性の一人だ。夫人は達者な英語、フランス語、オランダ語をしゃべり、敢て日本の『ハカマ』を洋装に利用する勇気があった!

 明治18年(1885)、華族女学校が開校になった。明治10年をもって興立した学習院は男女の生徒を容れてともに教育してきたものの男女の天賦、任務や使命の別、また自然の勢いとしての時代の趨勢等が要因となって、学習院女子部を廃止して新たに四谷区四谷仲町(赤坂離宮正門前)に設置したとのこと。

 9月14日、宮内卿より達せられた職制記事のなかに筆子は「雇教師 小鹿島筆」として出ている。『女子学習院五十年史』に記載されている旧職員名簿の欄には「教課事業嘱託 明治18、9−同25.10 退職 小鹿島筆」と、「教課事業嘱託 同26、7−同32、9 退職 旧姓小鹿島 渡邊筆」とある。

 ちなみに津田梅子は教授として、野口幽香と森島みねが助教の資格で保母の仕事についていたことが掲載されているこの年の9月30日、飯田町に明治女学校が木村熊二・鐙子夫妻によって設立され、10月15日に開校した。ここで、三宅花圃・相馬黒光羽仁もと子山室機恵子らが学んだ。女学が興隆してくる時勢となってきた。
 
 筆子は、華族女学校に尽くすかたわら明治19年(1886)大日本婦人教育会の設立に棚橋絢子や木村貞子と奔走し、女子教育の普及に力を注いだ。その主唱は、時代の欠陥を補い、女子教育の普及進歩をはかり、日本女性の徳操を養成することが急務であるとした。これに賛同した下田歌子や武田錦子らが協力した。

 明治25年に付属女学校(女紅学校を、翌年には女子小学校を付設した。同28年(1895)には総会と女紅学校卒業式を挙行し、刺繍科2名、裁縫科7名の第一回卒業生を送り出した。筆子が経過報告を、島田三郎が「婦人将来の責務」の講演をした。明治31年の総会および卒業式には松本荻江、武田錦子が祝辞を述べた。

 また、同年4月に京都御苑内で開催された第一回婦人製品博覧会に女紅学校生徒の作品を御買上の光栄に浴した。筆子の並々ならぬ献身ぶりが伺われるが、筆子の人的交流の幅の広さ、とりわけ皇族とのかかわりは会の推進に大きな役割を担ったことをうかがい知れる。

 明治31年、筆子は文部省の要請でアメリカのデンバー市で開催される婦人倶楽部万国大会に日本の婦人代表として華族女学校の同僚津田梅子と二人が出席することとなった。

 デンバー市での大会の役目を果たした筆子は、津田梅子と別れてシカゴの孤児院、身体障害児の学校、身体障害者の家、ボストンの女子感化院などを見学してまわった。またブリンマー女子大学、オガンズ女学校も訪問した。

 この旅行が終わりに近づいたころ、イギリス人キャンタベリー大監督夫人他18名の名で、イギリスにおける教育事業、社会事業の視察、そしてケンブリッジ大学での研究を望む招待が筆子に寄せられた。

 筆子は、せっかくの招待であるが、津田梅子に譲ってひとり帰国した。
 帰国後、さまざまな誹謗中傷が筆子を待っていた。筆子は、さまざまな憶測、誹謗中傷に悩まされた。結局、翌年の暮、帰国した津田梅子とともに華族女学校を退職した。 「実に実に、他人より羨望さるゝが如き地位には、再び立つまじきなりと思へり」との気持ちは、筆子の生活信条として最後まで離れることがなかった。それほど、心ない中傷に悩まされたのだった。

 華族女学校を退職後、キリスト教系の静修女学校で校長として勤めた。恐らく、心を穏やかにして教育に当たることができたときではなかったであろうか。小さな私塾で、イギリス人の住居をそのまま利用したものであり、生徒数も50名そこそこだった。当時の財界・政界で名のある者の子女が寄宿や通学していた。

 のちに夫となる石井亮一も、一時ここで教鞭をとったことがある。学校の授業に華道や琴の時間があった。筆子は敷地内に自宅をもった関係上、朝夕の生活も生徒と一緒に過ごすことが多く、人形つくりや料理の腕を振るった。学校行事として明治女学校や滝乃川学園の慈善バザーのお手伝いを生徒とともにした。筆子が寝食を忘れて尽力した大日本婦人教育会の催し物にも生徒を引率した。たんなる教科を学ぶだけでなく、家庭的な温かさを大事にした女学校であった。

 筆子の教育方法は、生徒を叱りつけるよりも生徒とともに悩み悲しみ、生徒の相談相手になり、生徒にとっては駆け込み寺のような感覚であった。今の学校教育の現場で言えば、保健室に生徒が駆け込む行動に似ている。

 明治30年、夫・小鹿島果が病死した。それから数年後に静修女学校が閉校となった。在校生と建物は、すでに津田塾を始めていた津田梅子に、そのまま移譲した。

 実は、亡夫・小鹿島果との間に3人の娘がいたが、3人に知的障害があった。そのため早くから石井亮一の経営する滝乃川学園に、3人のうち1人を預けていた。こうした事情から知的障害児教育につての関心が深かったからこそ、明治31年に婦人倶楽部万国大会に日本人代表として渡米したとき、津田梅子と別行動で身体障害児の学校や施設を見学したことが頷ける。

 静修女学校時代から筆子はしばしば滝乃川学園を訪れ、学園の中にある教会にも通っていたが、女学校を津田梅子に移譲してからは滝乃川学園にすべてを打ち込むことになる。やがて、石井亮一の高潔な人格に深い感銘を受けた筆子は、周囲の強い反対を押し切って明治36年(1903)、亮一と再婚した。

 筆子の甥にあたる関重広は、述懐している。
 降るほどある縁談を断って苦労の多い生活を選んで幸せなのか疑問だった。しかしある日、伯父・亮一がさる財閥から多額の寄付をもらえるといって出かけたが、手ぶらで帰宅した。不浄のお金はもらえないから断って来た、と伯母に語った。それを聞くや即座に頭を下げて、よくおことわりになりましたと言い、伯母は嬉しそうだった。伯母は幸せなんだ、と思った。

 学園での夫妻の生活は質素だった。夫妻の居間は子どもの宿舎の一部をあて、床に畳を数枚敷き詰める程度で、夜警も職員と同等に見回った。

 筆子は学園内に附設されていた保母養成部で英語、歴史、習字そして裁縫などを教えた。しかし、教鞭をとる以上に学園経費の捻出にその労力のほとんどを費やした。その努力のひとつは、学園が自活の道を開くことであった。養蚕、花つくり、わさび、奈良漬け、ルプリン(胃腸薬)、皮膚薬などを製造販売に励んだ。しかし、悲しいかな、所詮は武士の商法で、アイデアは優れているのだが、販路や儲けの方法が駄目であった。

 それどころか、農園の野菜や花つくりの苦労以上の悲しみが学園関係者を襲った。それは、大正9年の子どもの火遊びによる出火であった。6名の子どもが焼死したことは最後まで筆子の痛恨事となった。しかも、火中、子どもを捜し求めて階段を上ろうとして片足を痛めて、不自由な身となった。

 片足が不自由になった筆子に更に追い討ちをかけるように夫・亮一と死別し、園長就任をしたものの過労で脳溢血で倒れ、車椅子の身になった。かつて静修女学校で生徒と日常を共にしながら指導したように滝乃川においても筆子の願いだったが、直接子どもの世話をし、保母たちと一緒に働くことは不可能な体となった。

 それでも夫・亮一の死後6年間、園長として懸命に学園運営に尽力した。滝乃川の存在は当時の日本においてはきわめて重要なものであった。亮一が子どものためを思う気持ちを大事にした精神を継続させて困窮のなかを忍耐して運営にあたった。

 大正9年の出火を機会に、学園は渋沢栄一を理事長とする財団法人になったものの、経済的窮乏は変わらず、思い余った職員のほうから全員10円の給与を願い出た。しかし、このために退職する保母も出た。昭和10年代のことであった。

 こうした窮乏のなかでも子どものために、と大隈重信が別荘にするはずだった国立市谷保の土地を購入して、巣鴨から移動した。学園のなかに小川が流れ、自然の美しさと牧歌的雰囲気をいまなお残した広大な敷地で、現在の滝野川学園の場所である。

 筆子を誇り高く支えたのは職員や園児もそうであろうが、皇室とのつながりが大きかったようだ。度重なる皇室からの援助や励まし、また皇族の学園来訪は窮乏にあえぐ学園を物心両面で支えた。筆子は、学園の温室でメロンやパパイヤを栽培して皇室に献上していた。不作の折には他所で購入してまで、終生皇族への礼を絶やさなかった。

 幼少から語学に秀でて貞明皇后のフランス語の家庭教師と務め、華族女学校で教鞭をとり、大日本婦人教育会を起こし、鹿鳴館時代には華となり、日本代表に選ばれて渡米もした華やかな前半の生活の折り返しは、経済的に苦労の連続を強いられる滝乃川学園における隠れた働きだった。

 夫亮一を失って6年余り、半身不随のなか園長として学園運営に尽力したが、昭和19年1月24日、激しい戦火のもとで数人の保母に看取られて地上の生活を閉じた。79歳だった。

 石井亮一の撒いた一粒の麦は、筆子によって育てられ地にしっかりと根をおろし、今日に至っている。

 筆子には『火影』『過ぎし日の旅行日記』『自然界とおとぎばなし』などの著書が在る。筆子の愛用したピアノが滝乃川学園の倉庫から出てきた。修理後、リサイタルが有志によって開催された記憶は多くの人々のまだ新しいことだろう。
東京女学校
(竹橋女学校)
 明治初期の新時代の女子教育の中心機関として設けられていた国立の女学校。明治5年(1872)に神田雉子橋のち竹橋に開校された。最初は華族より平民にいたるまで、女子7歳以上15歳としたが、明治7年に規則改正により中学程度とし入学資格を小学校卒業以上の学力をもつ14歳以上17歳以下の女子とした。教科の程度は尋常小学科に英語を加え、小学科は日本人女教師、英語は3人の米婦人担当した。明治10年(1877)西南戦争により、経費節減のために廃止された。(出典:『日本近代教育史事典』)
トク・ベルツ

 ドイツの内科医Erwin von Baliz(明治9〜38年滞日)の息子。父ベルツは東京大学で医学の教育・研究および診療に従事。のち宮内省御用掛となった。『ベルツの日記』は息子トク・ベルツの編纂。

「ベルツ水」はベルツの処方。

雇教師 当時は、嘱託教師・雇教師・雇・保母の四職があった。嘱託教師は教授に準じ、雇教師は、助教に準じ、雇および保母は等外吏に準じた扱いであった。保母はのちに生徒世話係と称した。
棚橋 絢子  明治〜昭和期の教育者。天保10年(1839)大阪の牛尾田酒屋の長女として誕生。安政4年(1857)美濃国の代官棚橋真吾右衛門の息子で視覚障害者である儒者大作と結婚。5年ほどして棚橋家は禄を失い浪人となったため、絢子が寺子屋や裁縫師匠などをして生計を立てた。種々の学校教員を経験後、女学校を創設し、100歳まで教壇に立って、101歳で死没。
武田 錦子

 明治期の教育者。文久元年(1913)幕臣加藤清人の長女として江戸小石川に生まれる。少女時代に中村正直(敬宇)の門下生として英語を学び、明治7年(1874)、東京女学校に入学し、同11年に東京女子高等師範学校に入学して第二回生として卒業する。母校に勤務後、私立加藤女学校を起こし短期間であるが校主となる。明治19年文部省派遣の最初の女子留学生として渡米。日本女性として初の教育学を修め、明治22年に帰国。東京女子高等師範学校の英語教授を勤める。かたわら幼児教育にも貢献。23年に陸軍砲工学校教授武田英一と結婚。2子をもうける。死没後、遺族から母校に英語の蔵書700余冊が寄贈された。

 石井筆子の生年月日の出典は『天使のピアノ』による。
出 典 『キリスト教歴史』 『女性人名』 『社会事業』 『石井亮一』 『女子学習院五十年史』 『天使のピアノ』
滝乃川学園ホームページ http://www.takinogawagakuen.or.jp/
滝乃川学園 http://www.takinogawagakuen.or.jp/houzin1..htm
東京都保健福祉局 http://www.fukushi.metro.tokyo.jp/kankeisingikai/kaikaku2/sho2.htm
日本聖公会歴史の落ち穂 http://www5e.biglobe.ne.jp/~jhntakna/index.html
東京女子学園 http://www.tokyo-joshi.ac.jp/mezasumono/enkaku/main.html#top
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