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富森 幽香       元治2年(1865)1月15日〜昭和24年(1949)1月11日
 明治〜昭和期のキリスト教伝道師。
 近江国水口村に生まれる。水口藩医で、のち貴族院議員もつとめた巌谷修の二女。巌谷小波(本名は季雄)は幽香の弟である。

 幽香は、上京して東京女学校跡見女学校に学んだ。両者とも著名な女学校である。
 前者はいわば国立女学校で、通称、共立の女学校とか竹橋女学校と呼びならわされていた日本最初の国立女学校で、西洋文化を取り入れた富森当時の最高レベルの教育が施された。鳩山春子も学んだ学校である。鳩山春子がそうであったように、西南戦争などによる財政難から廃校となったことにより、転校したのかもしれない。あるいは、わけあって西洋化された教育よりも日本伝統を重んじる女学校を親が求めたのかもしれない。

 後者の跡見女学校はは跡見花蹊が明治8年に創設した私立の女学校で、伝統的な女子教養科目を、家族的な寄宿舎制度を取り合わせて教育内容としていたこと、当時、皇族や華族などの支援、岩崎弥之助の助力などもあり、順調に発展した。地方では「跡見出身」の学歴で安心して就職や縁談が整ったほどの隆盛ぶりを示し、現在に至っている。

 幽香もご多分に漏れず、よい縁談があり、関西鉄道会社常務・西村篤と結婚し、富森家を継いだ。富森家は、水口の旧藩士で、赤穂義士・富森助右衛門の子孫にあたる。

 明治20年(1887)京都の平安教会で就任したばかりの牧師・松山高吉から受洗した。平安教会は、同志社関係の人々の開拓によって、明治9年(1876)12月10日に設立された教会である。松山高吉は、平安教会の第2代目牧師として明治20年に就任し、明治24年までつとめ、教会形成に尽くした。

 幽香が受洗したころ兄・季雄は、東京で番町教会牧師の小崎弘道・千代夫妻と青年たちとで写真に収まっている。番町教会百年史の説明では明治20年前後とある。小崎弘道牧師は、明治23年に同志社社長に就任するため教会牧師を金森通倫と交代した。

 同34年一家でハワイに移住する。そこで、日本人美以教会婦人伝道師および婦人ホームの監督をつとめた。帰国後の37年(1904)に夫が死没すると、婦人伝道師として水口教会を助けた。現在の水口教会には教会墓地が整備されており、幽香の墓誌名が彫られてある。

 40年から同志社女学校で舎監をつとめると同時に、生徒に聖書や作法などを教えた。同志社女学校は、明治期を通じてさほど大規模な女学校ではなかったが、明治38年(1905)度に200名を超えたことがあるが、年度末には150名前後になっていた。京都界隈からよりは、むしろ地方からの生徒の比重が大きかった。

 当時の同志社女学校の教育方針として学則で「生徒は自宅より通学する者の外は凡て寄宿舎に入るべきものとす。但し特別の事情ありて入舎し難き者は教員会の決議を経て通学を許すことあるべし」と定めて、明治期から大正期を経て昭和の戦前までは一貫した教育方針であった。

 すなわち、寄宿舎生活においてこそ同志社女子教育の真髄を発揮しうるとの教育観に立っていた。それゆえ、舎監の職務は、教頭に比肩するほどの重要な職位であった。初代の舎監は山本さく(山本覚馬、新島八重兄妹の母)であったが、以後、富森幽香や長谷場知亀、また荒瀬かつが就任した。歴代の優れた舎監として同志社百年史は、寄宿舎の項で、幽香の名を記している。

 また、当時の舎監は、同窓会の評議員会における職務上の委員として原田社長、中瀬古教頭と並んで参加したが、幽香は同窓会の規則変更などの修正原案作成などに尽くした。

 兄の巌谷小波は、明治44年(1911)10月に同志社大学で、横井時雄志賀重昂らと並んで、「桃太郎主義」という主題による講演を行った。同志社百年史には本名で掲載されている。

 長男・京次は同志社大学教授として神学科主任、文学部長をつとめた新約聖書学者である。孫の国際経済学者・富森虔児は、現在、東京町田市の桜美林大学・大学院教授で、国際学部長をつとめた。
巌谷小波
1870.6.6〜1933.9.5

 明治〜昭和初期の童話作家。本名は季雄。父は貴族院議員も務める裕福な家庭に育ち、医者となることを期待されて育ったが、文学を好み、年(1887)、18歳で尾崎紅葉主宰の硯友社に参加。当時は大人向けの人情作品を描いていたが、1891年に博文館「少年文学」シリーズ第1編『こがね丸』を発表。以後は児童文学の執筆に専念。

 滝廉太郎が明治33年(1900)ドイツ(ベルリン)留学をしたとき、小波が留学中であり、また東京麹町小学校の先輩・後輩の間柄であったことから、小波は滝廉太郎の「幼稚園唱歌」編集時には種々協力をした。『番町教会』によると滝廉太郎は番町教会で受洗をして教会の青年部副部長を、またオルガニストをつとめたことが出ている。一方、『キリスト教歴史』では聖公会聖愛教会となっている。転会したのかもしれない。

出典 『同志社通史編一』 『同志社通史編二』 『キリスト教歴史』 『女性人名』 『番町教会』

http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person981.html
http://www.minato-ala.net/details/air/a0102.html
http://www9.ocn.ne.jp/~heian/