明治〜昭和初期の童話作家。本名は季雄。父は貴族院議員も務める裕福な家庭に育ち、医者となることを期待されて育ったが、文学を好み、年(1887)、18歳で尾崎紅葉主宰の硯友社に参加。当時は大人向けの人情作品を描いていたが、1891年に博文館「少年文学」シリーズ第1編『こがね丸』を発表。以後は児童文学の執筆に専念。
滝廉太郎が明治33年(1900)ドイツ(ベルリン)留学をしたとき、小波が留学中であり、また東京麹町小学校の先輩・後輩の間柄であったことから、小波は滝廉太郎の「幼稚園唱歌」編集時には種々協力をした。『番町教会』によると滝廉太郎は番町教会で受洗をして教会の青年部副部長を、またオルガニストをつとめたことが出ている。一方、『キリスト教歴史』では聖公会聖愛教会となっている。転会したのかもしれない。
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