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 鳩山 春子     文久元年(1861)3月23日〜昭和13年(1938)7月12日
 明治〜昭和期の教育者
 信濃国松本に、松本藩士渡辺幸右衛門の5女として、生まれた。

 明治初年の日本の要路者は「西洋に追いつけ、追い越せ」をモットーに教育が果たす役割の重大性を認識して、明治5年、『学制』が明示され、太政官の「被仰出書」に、一般人民に不学の者のないことを期すとして、一般人民とは「華士族農工商」と並んで「婦女子」であると明記した。その上で、幼童の子弟を男女の別なく「小学」に就学させることは親の責務であると強調した。このために小学校を5種あげた。そのうちのひとつに女児小学がある。

 男女7歳にして席を同じうせずと教育され、しかも松平定信は政策上「女は馬鹿がよろしい」と公言(実際、自分の娘の教育は家庭において高度な教養をつけさせたが)していた社会情勢のなかで生きていた庶民にとっては、太政官の「被仰出書」が頒布されたとて、すぐさま従順に子女の教育に大金を払うことは生活感情も実際の生活上も不可能であった。

 明治新政府によって明治5年、東京神田に官立東京女学校が開設された。前年の12月に文部省が「人々其家業ヲ昌ンニシ是ヲ能ク保ツ所以ノ者ハ男女ヲ論セス各職分ヲ知ルニヨレリ」と宣言したことにより、身分階級に無関係で子女に教育の門戸を開放したのである。この布達文は、当時の画期的な教育改革であった。

 春子は、明治7年(1874)、父と上京して東京女学校に入学した。
 当時を示す書物に「共立の女学校」とか「竹橋女学校」と出てくる学校は東京女学校のことである。当時の教科は「動物、植物、金石、生理、物理、化学、歴史、文法、作文、地理」といった広範囲で、当時の女子教育機関としては教育レベルの高い内容である。

 同校で教鞭をとった中川謙次郎や、春子自身も回顧しているが、入学者の質が高く、予め家庭で相当な教育を受けた者が多かった。「英語」に重点を置くところが新政府の腐心したところである。

 春子は、相当な自信を持っていた。それも、父親が松本の自宅に戻ったときに、漢籍の素読をさせて、父の試験に及第した結果、勉学のために上京が可能となったことから、父親に認められることは大変な誇りだったのである。

 いざ、入学してみると、田舎の寺子屋式の教育と大違いだった。まず、英語で困った。人々に遅れながら、追いつくまでミセス・ライスから個人指導を受けた。アメリカの師範学校出身のライスの教授法を春子は痛く関心したとみえて、他の教師と比較して高く評価している。

 最初は、殆どの教科を最下位のクラスから学んだ春子であったが、徐々にレベルアップして飛び級をするまでになった。当時は、飛び級は当たり前だった。東京にも慣れたころ、父親の特別な気配りもあって、これまで母親の手織物を着ていたが、呉服屋で着物を新調してもらい、食事も滋養をつけるようにと、父親と同じ待遇だった。このことは、当時の家庭一般では考えられ難いことである。

 体力が消耗しないように人力車で通学し、ヘボンの和英辞書まで個人で持っていた。ヘボンの和英辞書を明治初年に個人が所有できることは、まずもって経済上、困難である。慶応義塾生らは、たった1冊を奪い合うようにして写し取って学んだものである。彼らは、その激しい競争から日本における造語を作り出すに至った。

 父親が春子に相当な期待を寄せていたことが想像できる。春子自身も相当な天狗になっていた、と述懐している。竹橋女学校に通うだけでなく、特別な指導を受け、漢学者の塾にも通った。

 松本の田舎からポッと出の春子にとって、初めて学ぶ英語に戸惑いながらも、努力の結果、漸次、飛び級によって3年目にして最上級に編入が許されるほどになったのも束の間、肝心な竹橋女学校(官立東京女学校)は明治10年に廃校となった。春子の失望は到底言葉で言い表せるものではなかった。

 文部省が官立東京女学校を廃止した理由は、西南の役による財政難の余波を受けたことによる。財政難により廃校となった官立女学校は、もうひとつあった。それは、開拓使学校(後の札幌農学校→現在の北海道大学)の併置校として東京芝増上寺境内に明治5年に開校した女学校である。明治8年、男子校とともに札幌に移されたものの、翌9年5月に廃校となってしまった。

 官立東京女学校は、女子師範学校(現在のお茶ノ水女子大学)に吸収された。解釈は種々可能であろうが、教育史的に見るならば、リベラルアーツ型の東京女学校と教員養成を専門とする機関が統合されたことは、フランス型の特徴を示した、と解釈できる。たんに専門的な知識だけに終わるのではなく、教養を身につけた教員養成が可能ならば、人格的に優れた教員の輩出が期待できる。

 ともあれ、春子は、女子師範学校に特設された特別英学科に転入学した。ところが、春子には、不満だらけだった。西洋人の教師がおらず、また教授内容も低く感じたことにある。父親に愚痴をこぼした結果、アメリカ人に指導を受けることとなった。ミセス・ウワイコップの住んでいる駿河台の近くに知人の父親・漢学者の二階が空いていたことから、そこに下宿して、朝は英語を、学校から戻ると漢学者について素読を、といった勤勉ぶりだった。

 漢学者の家族との食事は、これまでの春子の食生活と比較するならば、余りの質素なものだった。たとえば、京菜の出盛り時分には、三度の食事にも唯塩漬けの京菜ばかりで味噌汁さえもない食事だった。塩漬けの菜が唯一の副食物で一片の魚肉は見かけなかった。ただ一週に一度くらい豆腐の煮物が少しばかり皿に盛られて出てきた。それがこれまで住んでいた霊岸島で口にした東京一と称されている大黒屋のうなぎくらいの美味に感じた。父親は心配して卵を春子に届けた。

 やがて春子は、明治11年7月、特別英学科を首席で卒業するに至った。卒業論文を英語で、大講堂で全校生徒、来賓の、教員らの前で朗読した。この朗読のために添削指導をしてくれた教師が永井久一郎幹事(校長の資格)であった。永井久一郎とは、作家・永井荷風の父親のことである。

 春子は特別英学科を卒業後、キリスト教主義の学校をも考えたが、余りの程度の低さから、結局、女子師範学校の本科に進学することに決め、9月に受験した。この当時は、現在のように、4月入学、3月卒業ではなかったのである。

 本科に入学したものの、あまり面白くもない状態であった。ところが、入学後8ヶ月ほどして、突如、洋行の話が出た。3人が選ばれ、春子のほか加藤錦子と丸橋光子だった。
 12年5月13日、辞令が文部大輔・田中不二麿の名で出た。
女子師範学科修業ノ為米国ヘ差遣候事但シフィラデルフィヤ女子師範学校ヘ入学致スベキ事
                                 文部大輔  田中不二麿

    
 かつて郵船会社横浜支店長をされた永井久一郎にも洋行の支度で世話になるなど、万々、洋行の準備は整った。ところが、なんと言う悲劇! 突如として三人とも洋行中止となった。なんでも、ある閣僚が「女子が米国の教育に深入りするのは我国風に適しないだろう」との強い主張によるものだった。文部省は、春子に、代わりとして一級上に昇級させる形をとり、支度に費やした費用は文部省が弁償することとなった。

 洋行中止は、春子にとって竹橋女学校が廃校になった以上の深い深い悲哀と、途方に暮れる寂しい日となった。しかし、春子は、かつて東京女学校が廃校になったときは終日土蔵の中で泣き通した。

 辛く悲しい思いで、文部省の用意したクラスに戻った春子は、猛烈な勉強家に戻った。
 夕食後は睡魔に襲われて、足に針を刺そうが一向に効き目のないことから、習慣として夜中に目覚めて三尺戸棚(寝具入れ)の中にはいり、灯心一本の光を頼りに二時間ほど勉強をしていた。洋行の準備などでしばらく学校を離れていたために学業の遅れが非常に気になって、盗賊のような真似なので押入れに忍び込むのは心地よくなかったが続けた。結構、共犯者も漸次増えた。

 卒業する一年前、明治13年晩秋、鳩山和夫との縁談が持ち上がった。和夫は長く外国生活を送り、演説は日本語よりも英語のほうが楽なくらいだったから、英語ができる女性を探していた。議論好きな春子を気に入って縁談がまとまった。

 和自身も当時余り見られない「改姓広告」を出している。同年10月4日付『東京日日』に次の記事が掲載された。
  
小生事八月二一日米国より帰国致し、今般左の場所へト居候条、併せてこの段知己の諸君に告ぐ。
   京橋区弥左衛門町四番地
               三浦和夫事
                             鳩 山 和 夫


 婚約が成立しても、見合いの日に僅か二三語交えたきりで、あとは会わずじまいだった。春子は和夫が書いた専修学校の法律の講義録を兄を通して入手し、それを読んで和夫を知ろうと努めた。また読んだことで、法律に興味を抱いた。

 やがて春子の卒業の時期が近づいた。卒業すると婚礼の手はずだった。ところが、和夫が帝国大学卒業式に演説をすることになった。その内容が過激すぎたとの批判から、教授職を退き、弁護士になる決意をした。大学側は講義だけは依頼した。

 明治14年7月、春子は卒業。和夫は弁護士受験準備のため婚礼の延期を申し出た。和夫は受験準備中は、講義と翻訳料の収入を得て生活していた。春子は、母校からの薦めもあり、母校の教壇に立った。その年11月に婚礼式を挙行。見合い以来、一度も顔を合わすことなく結婚した。嫁入衣装は、7,80歳になっても着られそうなものを選んで持たされた。母校を辞職した。

 婚礼式後、日本で最初と言われている結婚披露を行った。これは和夫の提案であった。男性は南北戦争のときの歌ジョンブルを、女性は唱歌をうたった。家庭にはいると、これまで料理や裁縫などしたことがないので、一切、和夫の母に判断を仰ぐことで進めた。

 和夫が大学を辞職して代言人を開業した。事務所も設けた。ことときも新聞で取り上げられもし、本人もまた「代言人広告」を出した。事務所の連絡先は自宅の住所となっている。事務所を創設したことは、和夫が最初とのことだ。春子は、女中がいることもあり、暇を利用して英語と漢語の勉強を続けた。

 やがて、16年1月1日、一郎が一月後れで過熟児で生まれた。一郎は、後の首相鳩山一郎である。
 春子は、夫に願い出た。「子供の前で私の過失を叱らない様に、子供の居らぬ時に十分責めて下さい、母親を軽蔑する様な子供は立派になれないと思いますから」と。実家の父が子どもの前で母を叱り付けている様子を多々見て育った春子は、母親が父に召使のように扱われていることに我慢できなかった。しかし、これは、夫婦の円満な方策だと、春子は結婚するとき知った。夫は子どものいる前で妻を叱り、陰で妻をいたわれ、と教えられたことに疑問視したため夫に願い出たのであった。

 翌年2月、次男の秀夫が生まれた。6月に母校に請われて再び教壇に立つことになった。春子は、元来生徒が大好きで教育に趣味を持っているので、せっかくの話だからと、また夫も妻の行動を束縛しないことから実現した。

 勤務が終わると、その足で駿河台の英和女学校でミス・キダー(注:フェリス和英女学校創立者ミス・キダーとは別人)とミス・ホイットマンから英語その他を習った。このとき、春子は23歳である。

 ついでながら、駿河台英和女学校は、バプテスト系の女学校である。来日の船上で森有礼と知り合い、彼の好意から敷地内で学校を開設する機会が与えられた。レベルの高い女学校であったが、惜しいことに廃校となった。

 一郎は、弁護士開業をしながら東京大学法学部講師を嘱託され、翌年は外務省にも出向くなど多忙であった。森有礼文部卿時代に博士制度をつくり、その第一回の博士号(法学博士)を授けられた。

 明治19年2月、春子は宮川保全とともに共立女子職業学校を創立する。同時に、母校に勤務の傍ら、教授として尽くす。

 共立女子職業学校が宮川保全と渡辺辰五郎そして鳩山春子の3人の共同で創設した錯覚を受けやすいが、実際は、彼ら3人を加えて29名が共立者なのである。校名の「共立」とは、29名が共同して設立した意味が含まれている。産声をあげた場所は、渡辺辰五郎の裁縫塾の一隅であった。その裁縫塾は、現時の東京家政大学へと発展した。

 昭和31年発行の『共立女子学園七十年史』には、日本女子大学創立者・成瀬仁蔵が帝国ホテルで国務大臣大隈重信その他朝野の貴顕紳士、貴婦人ら二百余名を招いて、大学建設の趣旨を訴え、4年間の準備を経て開設されたことを例にとって、宮川保全は、そういう社会に渡りをつけることはしなかったと誇らしげに述べている。

 とはいえ、共立女子職業学校は、宮川の人脈と政府、皇族等の格段の協力が少なくなかった。永井荷風の父久一郎が文部省官吏(のち教育局長)であったことは大きな支えである。また、他にも文部省高官が関係していたこともあり、他の私立学校の開設の苦労ほどの苦労ではなかったと思う。

 文部省役人の協力は、文相森有礼を動かし、ほとんど官立学校と変わらない援助を受け得た。神田一ツ橋の旧旗本屋敷を文部省が地所もろとも買い上げ、長屋などに模様替工事を行った上で、共立女子職業学校に無償で貸し下げた。異例のことである。

 明治25年2月9日、宮内省から通達があった。明治天皇から、神田一ツ橋通町21,2番地の校地820坪及び校舎328坪強が下賜された。こうした恩恵を受けつつ創立25周年を迎えた。25周年記念事業として中等教員無試験検定の資格を生徒に与えるため、明治44年4月から高等師範科を設置した。

 翌年、家庭科を設置し、鳩山春子が家庭科主任となる。そこで、春子は教師としての身分のままで同校の裁縫かの生徒の席に着いて恵子を始め、明治27年3月の卒業期に卒業証書を受理した、と新聞記事として掲載された。それほど、教師としての毅然とした姿勢が春子にはあった。春子のことがニュースになったからかどうか定かでないが、教員養成と花嫁学校の二本立ての学校として躍進していった。

 夫の和夫が選挙に出ることになった。春子は、明治36年(1903)1月8日、午後6時から四谷大泉で夫を推薦する演説を行った。新聞紙上では「これぞ府下に於ける選挙運動の第一着手なるべし」と出た。当の和夫は、選挙運動で牛込の新年会からマンマと締め出される失態を演じた。

 大正5年、宮川保全が校長となり、家庭科主任・鳩山春子は校長補となる。7年には社会教育を始めた。洗濯色染速成科を設けて、家庭の主婦らを指導した。着々と発展していった11年12月、宮川の逝去に伴い、春子は校長に就任した。

 大正12年9月1日、関東大震災により、校舎、寄宿舎倒壊、全焼の被害を受けた。復興財源を求めて春子は、焼け跡の車が通らない坂道を雨に濡れ、日暮れの闇に包まれるなどして寄付を求め歩いた。春子の熱意は政府の役人を動かし、復興事業貸付金予算を議会で成立させた。こうしたことが各方面に知り渡り、復興の仮校舎も建った。

 春子は、共立女子専門学校、高等学校の両校長を務め、女子教育に献身する一方で、衆議院議長を務める夫を助け、長男一郎を首相に、次男秀夫を東京帝国大学法学部教授に育てた。昭和13年7月12日、78歳で死没。台東区谷中霊園に葬られた。春子の後を受けて、一郎の妻・薫が校長に就任した。

 薫は、夫一郎が昭和29年12月から31年12月まで三次内閣を組織し、不自由な体をおして総理大臣に就任したとき「宰相をつくり上げた賢夫人」と評された。34年一郎死没後、49年には長男威一郎を参議院議員として政界入りさせ、51年には孫の郁夫を衆議院議員に当選させるなど、四代にわたる政治一家を支えた。現在の民主党党員鳩山由紀夫は、威一郎の長男である。

 その間、共立女子学園理事長、大学学長等、女子教育また、社会における貢献を惜しまず行い、昭和57年8月15日、93歳で世を去った。

 春子・薫ともども家庭にあっては政治家の夫を支え、子供を東京大学に学ばせることに腐心し、社会にあって女子教育に貢献したことなどから良妻賢母の誉れが高い。評価は、ひとさまざまであろうが、女子教育の歴史を顧みるときには春子の人生過程は貴重な史料となる。
出 典 『鳩山春子』 『共立女子学園七十年史』 『明治ニュース事典2』 『女性人名』 『明治ニュース事典5』 
『明治ニュース事典7』

東京家政大学 http://www.tokyo-kasei.ac.jp/
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