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 松本 荻江      嘉永4年(1851)6月〜明治32年(1899)9月10日

 明治期の教育者.

 本名は、むつ。
 松本万年の長女として武蔵国秩父郡大宮郷(埼玉県)に生まれた。父・万年は、漢学者で医業のかたわら私塾を開設していたが、のち東京師範学校教授になった。

 荻江は、19歳で隣村横瀬の長島家と縁組みし、一男を生んだが、その子は7歳で夭折した。そうしたこともあろうが、婚家で毎日読書に耽っていたことが離縁を申し渡された大きな理由のようで婚家を去り、生家に戻った。

 万年が埼玉県妻沼村に学舎を開くと荻江は万年について漢学を学んだ。荻江が余りにも豪富闊達なために、万年は娘を思う気持ちなのか、水滸伝や三国志など武張りしたものの読書を禁じられていたとか。万年は荻江が男子ならばよかったのに、と嘆いた気持ちに同情したくなるのは何人も同じであろう。

 ここの門下生に荻野吟子がいた。8歳年長の荻江と意気投合したのか、義姉妹の契りを結んだ。親しい仲で、いっそう学問に積極的になった。

 明治8年(1875)11月、東京女子師範学校が開設された。荻江は生徒として入学が目的であったものの、あまりにも荻江の学力が秀でていたため学校側が24歳の荻江に対して、同年11月28日、同校の教師として採用した。訓導に就任して、月給15円を受け取った。

明治14年(1891)5月24日、皇后陛下の行幸記録が『東京女子高等師範学校六十年史』にあるが、そのなかに荻江が本校の「本科3級家政学教員」として掲載されている。ちなみに、この記録のなかに鳩山春子(旧姓多賀)も教生として「幼稚園2の組 織物」で銘記されている。

荻江は、父・万年が師範学校教授のかたわら開いた私塾「止敬塾」で教授をつとめた。その後は、辺地教育に尽くしたいとの思いから同18年(1885)には秋田県女子師範学校教頭となった。翌19年には在野の教育家になる決心をして、まず仏教を研究し、ついでキリスト教を学んだ。

何事においても熱心な荻江はキリスト教については横井時雄大久保眞次郎らの指導を受け、受洗して神戸女子神学校の教授を務め併せて神学をも修めた。ここでも生徒兼教員であった。

 神戸教会年表の明治27年(1894)の項に「日清戦争の勃発を機に、教会員海老名みや、市田久、松本荻江らが、婦人奉公義会を結成、神戸市婦人会の前身となる。」という記録がある。

 日清戦争中は婦人奉公会を結成して将兵の激励や家族の慰問などに励んだ。この計画立案に関して、山室軍平に嫁ぐ前の佐藤機恵子と意気投合して同居して計画を推し進めた、ということを山室機恵子の項でも述べたが、そうなると、荻江は間なく上京したことになるが、どのような過程で機恵子と親しくなったのか興味が沸くところだ。

 ともあれ、機恵子は明治31年に軍平と結婚することになり、事業を断念したが、ともに神を受け入れている女同士でお国のために何かしようと張り切っている姿は想像できる。

下田歌子が明治31年(1898)に帝国婦人協会を組織すると、当初から下田に協力して同会の理事となり、さらに下田の事業の一つである実践女学校創設に校主歌子を助け、また各地で遊説して女子教育の必要を説いて女子教育の普及に尽力した。

 日本婦人矯風会は、年次総会を「婦人矯風会中央部第6回紀念会」として明治32年(1899)4月3日〜4日に開催したが、そこにおいて荻江は役員に名を連ねた。しかし残念なことに荻江は、同年に49歳で急逝した。下田歌子が『婦人新報』に弔辞を寄せている。このあと、下田歌子は、婦人矯風会の名誉会員として入会者のリストに加えられた。

出 典 『女性人名』 『矯風会百年史』 『東京女子高等師範学校六十年史』 『植村 5』
神戸教会年表 http://www12.ocn.ne.jp/~kbchurch/contents/nenpyou.html

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