最初のページ(index)に戻る


海老名 みや  文久2年(1862.11.6)9月15日〜昭和27年(1952)3月4日

 明治〜昭和期のキリスト教伝道師。キリスト教界の婦人活動者として著名。
 牧師海老名弾正の妻。

 熊本近郊の沼山津に生まれる。父・横井小楠、母・つせ。母の姉妹に竹崎順子矢嶋楫子徳富久子がいる。

 明治2年(1869)、父・横井小楠が暗殺されたことにより熊本に転居する。そこで、熊本洋学校教師ジェーンズ,L.L.の妻から英語を学ぶ。同8年(1875)に徳富(湯浅)初子とともに洋学校に編入学する。このとき、熊本洋学校生徒の海老名弾正は、女子が男子といっしょに学習することに抗議し、ジェーンズ,L.L.にたしなめられた。

翌年、兄の時雄や海老名弾正ら熊本洋学校生徒がキリスト教へ入信を宣言し、花岡山で宣誓した。いわゆる熊本バンドの起こりである。これがもとで熊本洋学校は閉校となった。そのために、兄の横井時雄が上京することになった。それにあわせてみやも一緒に東京に遊学した。


 しかし、翌10年(1877)京都の同志社に入学し、女学校に在籍して男子学生のクラスで授業を受けた。同年、新島襄から受洗した。


 明治15年(1882)、20歳のみやは兄の友人である牧師・海老名弾正と結婚し、群馬県安中、東京、熊本、京都、神戸と夫の赴任先に従いともにキリスト教伝道に励む。 この間、矢嶋楫子の日本基督教婦人矯風会の設立や竹崎順子の熊本女学校設立に協力した。また、同志社女学校の舎監をつとめた。

 明治30年(1897)、夫が東京の本郷(弓町本郷)教会の牧師に赴任すると、安井てつらとともに明治42年(1909)に『新女界』を発刊して、その編集を担当する。家庭・教育・結婚問題に関して執筆した。大正6年(1917)以降は、主筆の安井てつに代わって社説を書くなどして婦人の活動に従事した。

 夫の朝鮮伝道、北米日系人啓発運動に従い、また同7年(1918)には夫とともに欧米に渡って世界キリスト教徒大会(ピッツバーグ)で日本婦人代表として講演した。

 大正9年(1920)、同志社総長に就任した夫とともに京都に移り住む。昭和12年(1937)の夫の死後、キリスト教連合会婦人会会長、日本婦人会、基督教婦人矯風会、YWCAなどの会長を歴任した。
 
 90歳の長寿を全うし、地上の生活を終えた。

出 典 『キリスト教歴史』 『キリスト教人名』 『女性人名』
神戸教会年表(http://www12.ocn.ne.jp/~kbchurch/contents/nenpyou.html
海老名美屋(http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/ebina_my.html
トップに戻る