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 湯浅 初子    安政7年1月23日(1860.2.14)〜昭和10年(1935)3月13日
 明治〜大正期のキリスト教教育者、社会事業家。

 徳富一敬・久子の4女として熊本水俣で生まれた。徳富蘇峰、徳富蘆花の姉にあたる。

 初子は横井(海老名)みやと、横井家の養子・左平太の妻玉子と3人で連れ立って熊本洋学校でジェーンズ夫人に英学を学んだ。
 12歳のときに上京して慶応義塾予科に通学したことがあるが、明治16年(1883)に叔母矢嶋楫子の家に住み、叔母の経営する女子学院の教育を助け、幼児教育の研究を行った。この間に同志社に学んだ時期もある。

 初子に対して犬養毅との縁談があったが、男子の節操に対する見解の相違で初子のほうから破談にしたと伝えられている。この気概は、後に東京婦人矯風会発起の一夫一婦制の刑法及び民法に対する建白書を書き、署名連印800余名を集めて元老院に提出する勢いのなかに脈打っているといえるだろう。

 明治18年(1885)群馬県安中の実業家で、群馬県議会議員湯浅治郎と碓井会堂(安中教会)で結婚。翌年、夫とともに上京して、キリスト教精神を基礎とした家庭を築くとともに女子の啓蒙教育と婦人矯風運動に尽力した。とくに廃娼運動は終生の課題として尽力した。

 夫・治郎が同志社創立者新島襄没後、同志社を経営することになったため、夫に伴って京都に転居した。夫・治郎は昭和7年(1932)に死去した。

 絶筆に「人間は何を措いても神の国に働く事丈は忘れざる様相勤め度候。老の身の仕事も無く候へ共、子供達の為、孫達の為め、目に触れ耳にふれたる人々の為めに熱心に祈る事は忘れぬ様、只管相勤度候」と。

 息子湯浅八郎の同志社総長就任に反対しつつ75歳の生涯を閉じた。
 <やりかけ>
出 典 『キリスト教歴史』 『キリスト教人名』 『女性人名』  『植村 5』

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