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 湯浅 清子    明治34年(1901)1月1日〜昭和47年(1972)4月22日

日本キリスト教女子青年会(YWCA)副会長。湯浅八郎の妻。
 牧師鵜飼猛・妙子の長女として東京に生まれる。

 父・鵜飼猛は、慶応元年(1866)に出雲国松江に生まれた。明治12年(1879)中学2年のとき同郷の鵜飼渚の養子となり、上京して府立一中に入り卒業した。明治18年(1885)志を立てて渡米し、サンフランシスコ日本人教会牧師美山貫一の世話を受けスクールボーイなどをして高校を卒業した。

 卒業の翌年、受洗した。美山貫一のハワイ伝道に同行して、当時の総領事安藤太郎らを信仰に導いたのちシンプソン大学に入学し、5年間の学業後卒業してメソジスト教会の正教師となった。

 明治28年(1895)に帰国して青山メソジスト教会、銀座教会に在職した。
 日本日曜学校協会の創立者であり、明治43年(1910)最初の日曜学校大会を国技館で開催したり、世界の日曜学校大会に代表として出席したことがある。のち、四男が銀座教会牧師に就任した。

 さて、話を清子に戻そう。
 清子は、大正2年(1913)に女子学院に入学して矢嶋楫子植村環の薫陶を受けた。矢嶋楫子は母・妙子の生母であり、清子の祖母に当たる。

 大正3年(1914)からアメリカアイオワ州のシンプソン大学で学び、大正11年(1922)に卒業した。翌年、アメリカイリノイ州で湯浅八郎と結婚した。続いて夫とともにヨーロッパで学び、大正13年(1924)に帰国した。

 夫・湯浅八郎は、湯浅治郎・初子の五男として東京赤坂に生まれ、家庭のピューリタン信仰に養われる。
 渡米して昆虫学を専攻し、大正9年(1920)Ph.Dを取得してイリノイ州立博物局技師として勤務。その間に鵜飼清子と結婚した。京都大学に創設された農学部の招聘を受け、文部省在外研究員としてドイツに留まり、研究を続行。帰国後、京都大学教授、理学博士。

 同志社大学総長を勤めていたときに同志社神棚事件チャペル籠城事件教育勅語誤読事件などで総長排斥運動により辞任した。だが戦後、再度、総長に乞われて就任した。国際基督教大学学長その他の教育界、教会、社会に貢献し、昭和56年(1981)8月15日、召された。

 清子は、昭和2年(1927)、26歳で京都YWCA会長となったのを皮切りに日本YWCA中央委員、副会長、東京基督教女子青年会会長などを歴任してYWCAの発展に貢献した。戦後は京都市教育委員に、京都家庭裁判所調停委員を務めて社会的に活躍した。京都で死没。

<やりかけ>

安藤 太郎
(1846.5.2-1924.10.27)
 弘化3年(1846)生まれ。外交官。鯨飲家であったが、妻文子が回心したことに続いてクリスチャンとなり、いっさい飲酒を止め、帰国後は禁酒運動の指導者として根本正らとともに禁酒会を創設して半生を禁酒運動に捧げた。教会は根本正と同じく銀座教会に所属したが、大正4年(1915)、妻の永眠後、妻を記念して献堂したメソジスト安藤記念教会に転会した。根本も一緒だった。
湯浅 治郎
(1850.11.24-1932.6.7)
 実業家。政治家。醤油醸造業治郎吉・茂代の子として上州安中に生まれる。便覧舎を創立して公共の図書館事業の先駆をなした。横浜で生糸製法を学び故郷に養蚕業を起こした。明治4年(1871)、新島襄が学んでいたアマースト大学のシーリー,J.H.来日を知り新島襄の父母を伴って麻布善福寺の米国大使館に赴いて新島襄の消息を尋ねると同時に西洋事情を学ぶなど進取の気性に富んでいた。新島襄が帰国後の講演でキリスト教に共鳴して新島襄から受洗。

 県会議員を勤めるほか、群馬県が全国に先駆けて廃娼を実施したのは彼の県議会議長時代の功労である。県会議員の議長時代に議会は、祈祷を始めて会議を開始したことは治郎の力であろう。

 家業を三郎に任せて同志社の経営に当たったり、義弟の徳富蘇峰の民友社支援等々、身を挺した社会貢献を行った。真下茂登子と結婚後、死別により徳富初子と再婚。
出 典

『キリスト教歴史』

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