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 植村 環    明治23年(1890)8月24日〜昭和57年(1982)5月26日
 昭和期の牧師。
 牧師植村正久の3女として、東京で生まれた。母は季野。牧師山内量平は母の兄である。
 明治38年(1905)、15歳の時、富士見町教会で父の正久牧師から受洗した。

 同43年女子学院専門部を卒業した翌年、医師を志して渡米した。しかし途中で哲学に志を転じて、大正4年(1915)6月、ウェズリー大学を卒業して帰国した。帰国後は津田英学塾女子学院の教師をつとめた。

 大正6年(1917)4月24日、川戸州三(33歳)と結婚した。環が28歳のときだった。新居には茂木春子(渡辺和子、沼津教会員)が家事を手伝ってくれた。渡辺和子は24,5歳のころ聾者になったが、川戸家ではなくてならないすぐれたホームヘルパーだった。

 翌年5月13日に長女が誕生した。その日は日曜日であった。植村正久が主の再臨にちなんで俟子とした。そこには、「俟つ」とは常に宮仕えする心である。積極的に主の御用に当たり、しかも謙遜にして常に祈って主の御声を聴く態度である、という意味が含まれていた。

 大正8年(1919)6月15日の聖日の礼拝を終えて駆けつけてきた近親者に看取られて、夫・州三が天国に旅立った。35歳だった。環には生後1年1ヶ月の俟子と、まだ胎内にいる未知の子が遺された。
 その年の11月6日、男児が誕生した。正久が「晴彦」と命名した。だが、晴彦は、大正12年(1923)4月、発熱で寝込んだ。5日目に熱は引いたが後遺症で小児麻痺にかかった。環は種々可能な限りの手を施し、治療のために東北の温泉場まで出かけた。しかし、大正12年10月3日、母親の環の腕の中で州三のいる天に召された。

 そこへ同14年(1925)父・正久が死去した。父の死により周囲の薦めもあり、伝道師になる決意を固めて、同年9月渡英、エディンバラのニューカレッジおよびエディンバラ大学神学部で学び、
昭和4年(1929)12月に帰国した。その間、一人娘の俟子は、季野が面倒を見た。季野は環の帰国を待っていたかのようにして、食道癌で翌年の6月7日に永眠した。

 環は、昭和5年(1930)9月以降、東京女子大学、日本神学校、東京聖経女学院講師をつとめるのであるが、同時に同年10月東京淀橋柏木で伝道を開始した。翌年、柏木教会を設立して日本基督教会に属し主任となった。

 同9年(1934)日本基督教会東京中会で教師となり、12年10月柏木教会設立式並びに牧師就任式が挙行された。同年から翌年にかけて台湾総督府のキリスト教主義学校弾圧に抗し、台湾長老教会女学校の校長をつとめた。

 12年日本YWCA会長に就任。今日のYWCAの基礎を築いた。13〜26年世界YWCA副会長をつとめる。21年アメリカ跳梁教会婦人会の招きに応じ渡米、講演を行う。

 22年戦災で焼失した柏木教会堂を再建。25年平塚らいてうらとともにアメリカのダレス長官に全面講和を要請。26年日本基督教団を離脱、日本基督教会東京中会に加入。48年4月現役牧師を隠退。

 30年下中弥三郎、前田多門、茅誠司、湯川秀樹、平塚らいてう、上代たのとともに世界平和アピール7人委員会を結成、世界平和に尽くす。

 93歳で死去。
 著書に説教集『来たれ往け』『朝の光土より』、自伝『私の歩んだ道』などがあり、『植村環著作集』全3巻にまとめられている。

<やりかけ>
出 典 『植村 2』  『植村環2』 『植村環3』 『キリスト教歴史』  『女性人名』
富士見町教会(http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Icho/1661/i-rekisi.htm)