植村 季野(すえの) 安政5年(1858)8月5日〜昭和5年(1930)6月7日 |
牧師・植村正久の妻。号は秋華。
戸籍上の生年月日は、古記録によれば嘉永6年(1853)8月5日とのこと。
<生い立ち>
紀伊国日高郡南部駅の父・山内静太郎と母・三千代の二女として南部村に生まれた。山内家は、代々酒造業を営み、神官もつとめた庄屋であった。
母・三千代は紀州藩の侍医・野上応聞の長女として、文政3年正月24日に生まれた。天保12年8月に静太郎と結婚し、三男と四女をもうけた。病で苦しんでいる乞食に対して施薬をする慈悲深い三千代であった。また婚家山内は酒造家で生活に余裕があり、文人らの出入りを歓迎していたことから自然と和歌をたのしんでいた。
明治12年(1879)、父・静太郎が死去したので、次兄の量平が山内家の相続人となった。ところが、兄・量平の代で事業に失敗して先祖代々の財を失った。しかし、神は、早くから信仰に導かれていた季野を通してご計画を遂行された! 量平はカンバーランド長老キリスト教会の宣教師・ヘール,J.B.とその協力者・大石余平によって回心し、明治16年(1883)5月17日に受洗した。その後は、田辺教会長老となる。さらに上京して深川教会の長老となり、また築地神学校に学ぶ一方で南海堂印刷所を設け、季野の夫植村正久の『日本評論』や『福音新報』その他の出版を引き受けた。 のち、日本福音ルーテル教会最初の牧師となった。病気になり現役を退き、故郷の田辺に戻り、大正7年(1918)11月11日、地上の生活を閉じて召天した。
季野のきょうだいは、次の7人である。
★長女・たまえ(南部の由緒ある一向宗勝専寺住職・志場と結婚)
★長男(夭折)
★次男・山内量平(山内家の相続人で、のち牧師となる)大正7年11月11日死去。
★三男・権右衛門(芳養の豪家小切間の養嗣子となる)
★次女・季野(植村正久の妻となる)
★三女・くま子(実業家・楠本定と結婚)
★四女・のぶえ(和歌山県警部・藤川倭三郎と結婚)
季野は幼少時から闊達で、男装して儒者の家塾に学ぶほどだった。
明治8年(1875)、横浜に出てフェリス和英女学校に入学した。午前中は生徒として英学を勉強したが、午後から教師の代理として和漢を担当するほど古典に造詣が深かった。
<受洗>
同10年5月27日、島田嘉志子(ペンネーム若松賤子)とともに横浜海岸教会で宣教師・ミラー、E.R.から受洗した。
ミラー,E.R.は、明治5年(1872)6月、アメリカ長老教会宣教師として来日した。古い文書では、通称、ミロルと呼ばれている。翌年7月、キダー,M.E.と結婚した。キダーは、オランダ改革派宣教師としてブラウンに連れられて来日し、フェリス和英女学校の祖となる家塾を開設し、日本の女子教育に貢献した。ミラーは妻キダーの所属する改革派に転じた。三浦徹と協力して妻とともに『喜の音』を発行して文字による伝道活動に力を入れた。北海道孤児院(林竹太郎)の建築費を寄付し、ミロル館が建った。
<結婚>
同15年(1882)、植村正久と結婚した。 長女・澄江は佐波亘の妻、牧師植村環は3女である。
夫の外遊中、一時、明治女学校で漢文教師をつとめ、牧師の妻として内助の功を発揮した。
明治女学校は、明治18年(1885)9月3日に創立されたキリスト教主義の女子教育機関である。創設者で校長は木村熊二である。当時は外国の宣教師やその伝道機関が運営するキリスト教女学校が主流であった。日本人が主体性をもって日本女性の社会的視野の拡大と自覚的地位の向上を図ることを教育の理念とした学校として画期的であった。校長が巌本善治に代わったが、機関誌的役割を担っていた『女学雑誌』とともに当時の女性に大きな魅力と感化を与えた。教師陣に島崎藤村、北村透谷もいた。相馬黒光、山室機恵子、羽仁もと子、野上弥生子は卒業生である。
<やりかけ> |
出 典 |
『植村正久と其の時代 T』 『キリスト教人名』 『キリスト教歴史』 『女性人名』
日本福音ルーテル教会 http://www.jelc.or.jp/index.html
植村季野 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/A/uemura_s.html
フェリス女学院 http://www.ferris.ed.jp/indexn.html |