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植村 季野         安政5年(1858)8月5日〜昭和5年(1930)6月7日
 牧師・植村正久の妻。号は秋華。

 紀伊国日高郡南部村に生まれる。同郡山田村の山内繁憲・三千代(野上良安の三女)の二女。山内量平の妹。戸籍上の生年月日は、古記録によれば嘉永6年(1853)8月5日とのこと。

 山内家は、代々酒造業を営み、神官もつとめた庄屋であったが、兄・量平の代で事業に失敗した。だが、量平はカンバーランド長老キリスト教会の宣教師・ヘール,J.B.とその協力者・大石余平によって回心し、明治17年(1884)授洗した。

 その後は、田辺教会長老となる。さらに上京して深川教会の長老となり、また築地神学校に学ぶ一方で南海堂印刷所を設け、季野の夫植村正久の『日本評論』や『福音新報』その他の出版を引き受けた。 のち、日本福音ルーテル教会最初の牧師となった。病気になり現役を退き、故郷の田辺に戻り、大正7年(1918)に死没した。

 季野は幼少時から闊達で、男装して儒者の家塾に学ぶほどだった。
 明治8年(1875)横浜に出てフェリス和英女学校に学ぶ。午前中は生徒として英学を、午後から教師の代理として和漢を担当するほど古典に造詣が深かった。

 同10年5月27日、島田嘉志子(ペンネーム若松賤子)と横浜海岸教会で宣教師・ミラー、E.R.から受洗した。

 同15年(1882)、植村正久と結婚。夫の外遊中、一時、明治女学校で漢文教師をつとめ、牧師の妻として内助の功を発揮した。長女・澄江佐波亘の妻、牧師植村環は3女。
フェリス和英女学校
ミラー,E.R.  明治5年(1872)6月、アメリカ長老教会宣教師として来日。通称、ミロルと呼ばれている。翌年7月、キダー,M.E.と結婚。妻の所属する改革派に転じた。三浦徹と協力して妻とともに『喜の音』を発行して文字による伝道活動に力を入れた。北海道孤児院(林竹太郎)の建築費を寄付し、ミロル館が建った。
明治女学校  明治18年(1885)9月3日に創立されたキリスト教主義の女子教育機関。校長は木村熊二。日本人の主体性による運営。女性の社会的視野の拡大と自覚的地位の向上を図ることを教育の理念とした。機関誌的役割を担っていた『女学雑誌』とともに当時の女性に大きな魅力と感化を与えた。教師陣に島崎藤村、北村透谷もいた。相馬黒光山室機恵子羽仁もと子、野上弥生子は卒業生である
出典 『植村正久と其の時代』 『キリスト教人名』 『キリスト教歴史』 『女性人名』
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