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  若松 賤子    元治元年(1864)3月1日〜明治29年(1896)2月10日
  明治期の翻訳家であり、評論家でもある。また夫に協力して明治女学校運営に生涯をかけた女性。

 本名は、甲子。のちに嘉志子。
 会津藩士松川(島田)勝次郎の長女として誕生した。
 
 戊辰戦争で一家は没落し離散した。

 明治3年(1870)、織物商人大川甚平の養女となり横浜へ移り、翌年、婦人宣教師キダーの設立した英学塾(フェリス和英女学校)に入学。

 明治10年に受洗した。
 同15年、フェリス和英女学校代一回生として卒業。そのまま母校の英語教師となる。

 19年、実家に復籍して島田嘉志と名乗る。

 19年5月、若松賤の筆名で巌本善治が主筆をつとめる『女学雑誌』に紀行文「旧き都のつと」を発表、続いてロングフェローなどの訳詩を掲載する。

 すでに肺結核に冒されていたが、22年(1947)7月、巌本善治と結婚。男女の人格が対等であることを認め合ったうえでの結婚であった。 フェリス女学院を退職し、病気に苦しみ家事に追われながら「お向ふの離れ」「すみれ」などの小説、翻案、翻訳、児童教育についての評論などを『女学雑誌』に発表した。とくに23年から連載したバーネットの「小公子」の翻訳は純然たる口語体の名訳で、児童文学史上の金字塔となるとともに賤子の名を不朽にした。

 同29年2月5日夫善治が経営する明治女学校が焼失した。校長舎からの避難で病状が悪化し、3児を残して33歳で死去。

 墓は、東京巣鴨の染井墓地にあり、遺言通り墓には「賤子」の二字のみが刻んである。死後、英文遺稿集『巌本嘉志子』『忘れかたみ』が出版された。
<やりかけ>
出 典 『キリスト教歴史』  『キリスト教人名』  『女性人名』

女と男の未来館 http://www.f-miraikan.or.jp/index4/4-2-2-name7.htm