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 羽仁 もと子   明治6年(1873)9月8日〜昭和32年(1957)4月7日
 大正・昭和期の教育者。自由学園創立者。

《生い立ち》
 青森県八戸に生まれた。

《上京》
 明治22年(1889)2月にはじめて上京し、希望して東京府立第一高等女学校に入学した。

《受洗》
 在学中に築地居留地13番地にあった明石町教会で受洗した。

《明治女学校》
 明治24年 (1891)3月に卒業すると、翌4月に明治女学校高等科へ進んだ。明治女学校は、アメリカ留学から戻った木村熊二が妻のとともに創立した日本人の手によるキリスト教主義の女学校である。当時は、外国のミッションに関係のある女学校経営が主流であったなか、日本人による経営は斬新であった。また教育内容も高度であった。新宿の中村屋経営者の相馬黒光、救世軍の山室軍平夫人の機恵子らが卒業した女学校である。

 明治女学校の在学中は、『女学雑誌』(明治女学校校長巌本善治主幹)の校正などを手伝った。これが、のちの報知新聞社校正係のアルバイトから新聞記者採用のきっかけとなる。

《教員となる》
 25年(1892)夏、八戸に戻ったもと子は、そのまま小学校教員、そしてカトリック系の盛岡女学校教員を勤め明治女学校に戻らなかった。

《結婚、離婚》

 明治29年(1896)夏ごろ、京都で結婚生活を送ったが、半年後に離婚した。
 明治31年(1898)上京し、吉岡荒太・吉岡弥生夫妻宅の家事手伝いとなった。しかし、吉岡弥生は、もと子の潜在能力を見抜き、別の進路を開拓するように励ました。吉岡は、自らもと子が女中をしていたことを口外することはなかったが、もと子自身が自伝「半生を語る」で公にした。

《女性の新聞記者第一号》

 しばらく築地居留地の女子語学校付属の小学校教員を務めたが、報知新聞社に校正係りとして働き口を見つけ、やがて正規の新聞記者として採用された。もと子が日本で最初の女性新聞記者であり、社会からも注目された。

《結婚》
 報知新聞社にもと子よりやや遅れて入社した羽仁吉一と、明治34年(1901)12月に結婚し、両者とも報知新聞社を退職した。もと子は婦人教育会の機関紙の編集を、吉一は読売新聞社に入社した。

《『婦人之友』創刊》
 内外出版会から家庭向け雑誌の編集を頼まれ、36年(1903)4月に『家庭之友』第1号を発刊した。その後、内外出版会から独立して、明治41年(1908)1月に『婦人之友』を創刊した。

《自由学園》
 大正10年(1921)、長女の説子が小学校を卒業すると同時に、夫・吉一とともに東京雑司が谷に、文部省の高等女学校令によらない女学校自由学園を創立し、もと子は園長に就任した。翌年にはF.L.ライトの設計による後者を新築した。

 昭和3年(1928)4月小学校、同10年(1935)4月男子部を創設し、初等・中等・高等と一貫したキリスト教に基づく手づくり教育を目指した。生徒の自発心による知識、技術、信仰の開発を促し、ユニークな教育実践を試みた。


 青森八戸の千葉学園創立者である千葉くらは、もと子の妹である。
<やりかけ>
出 典 『羽仁もと子』  『羽仁もと子14』 『羽仁もと子15』 『キリスト教人名』 『女性人名』

自由学園(http://www.jiyu.ac.jp/)
千葉学園高等学校(http://www.hi-net.ne.jp/chibano2/index.htm