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 木村 鐙(とう)子     嘉永元年(1848)6月26日〜明治19年(1868)8月18日
 明治期の教育者。明治女学校創立者・木村熊二の妻。鐙、鐙子の両者が使用されているが、ここでは一般的に使用されている鐙子とする。

<生い立ち> 
 幕臣田口耕三・まちの娘。父は、経済史家。田口卯吉は弟である。
 幼くして父を失い、継父・樫郎について漢籍及び武芸を学んだ。

<結婚> 
 慶応元年(1865)5月、17歳で木村熊二と結婚した。維新前後、夫は幕臣として国事に奔走し、鐙子は家を守って辛酸をなめた。幕府崩壊後、鐙子は一人息子と実家の家族を伴い、横浜根岸に転居した。

 明治3年(1970)熊二が渡米ののち弟・卯吉も上京して大蔵省に勤務したため、両家族の家事を鐙子が一手に引き受け、よく家計を支えた。

<婦人矯風会> 
 たんに女子教育に関心をもつだけでなく、社会全般に目を向け、女子の意識改革にも積極的であった。
 日本キリスト教婦人矯風会の前身である「東京婦人矯風会」発会に先立ち、明治19年(1886)7月24日に、明治女学校を会場とした準備会に巌本善治、津田仙を含めて14名が集まった。続いて8月7日には規則や入会手続き等を議して、会の名称も「婦人矯風会」として『女学雑誌』32号に紹介した。ところが、中心的役割を担っていた鐙子がコレラによって急逝し、計画が頓挫する騒ぎとなり、『女学雑誌』37号に鐙子永眠後、中断したが遠からず日の目を見るだろうと希望が掲載され、鐙子の努力を引き継いで12月6日に日本橋教会において発会式が行われた。

<やりかけ>
 讃美歌(現行479番)「去りにし人をしのぶれば」は、鐙子の葬儀に用いるために植村正久が挽歌の訳を頼まれていたとき、詩篇の翻訳をしていたことから、植村正久は心に思いつくことがあって、これをつくったとのことを、高橋久野が、「30年間の回顧」の中で述べている。。
出 典 『明治女学校の研究』 『キリスト教人名』 『植村4』 『女性人名』 『女学雑誌2』 『矯風会百年史』