日本で最初の女性牧師
<生い立ち>
佐渡河原田の素封家に生まれた。生家は、醸造業を営み、郵便局を経営していた。久野は、幼少のころから寺の住職から漢文や習字の手習いを受けた。12,3歳のころ、分家の高橋又二郎と婚約した。学問を好み、思索家であった又二郎のすすめで上京し、久野自身勉強することとなり、明治女学校と東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学の前身)に学んだ。
明治女学校は、明治18年(1885)木村熊二・鐙子夫妻によって設立され、巖本善治・嘉志子夫妻によって実質的に運営された、当時としては最高レベルのキリスト教主義の女子教育機関であった。しかも、当時のキリスト教女学校の大半は宣教師や関係伝道局によって運営されていたが、明治女学校は日本人の手によって日本女性のための学校として設立された。
ここでは、救世軍の山室軍平の妻となった佐藤機恵子や中村屋の創業者である相馬黒光、また自由学園創立者の羽仁もと子も学んだ女学校で、島崎藤村や北村透谷が教壇に立った時期があった。また、日本における女医免許状第一号の荻野吟子も教員、校医としてつとめた。久野は、明治女学校在学中に一番町(富士見町)教会の日曜学校および礼拝に出席し、植村正久の指導を受けた。
当時、植村正久は教壇に立って聖書のほか文学論をも講じていた。
<受洗・結婚>
明治25年(1892)7月、東京女子高等師範学校を卒業と同時に植村正久から受洗した。帰郷して、かねてからの婚約者又二郎と結婚した。21歳のときだった。
<教員>
佐渡河原田小学校訓導になった。ところが、同28年年(1895)2月に夫が死去したことで再び上京して青山北町に居住し、青山学院の国語教師をつとめた。
<献身>
久野は植村正久の牧会する富士見町教会の会員として青山教会や洗足教会の開拓に、また婦人伝道会の無給幹事として奉仕を続けていたが、40歳を超えて召命を受け、教師の職を辞して東京神学社に入学した。東京神学社は、植村正久が起こした牧師要請を目的とした神学校で、現在の東京神学大学の前身である。
大正2年(1913)42歳で神学社を卒業すると同時に富士見町教会の伝道師に就任した。そのときの伝道師としての謝儀はままならず、久野は家庭教師をしながらつましく生活をした。常に黒っぽい和服に身を包み、ただひたすら家庭訪問、病人見舞いを続けた。そして、婦人伝道会から台湾、満州、また米国西海岸の伝道に派遣された。台湾には河井道とともに特別派遣された。
大正12年(1923)、教師試補の准允を受け、翌年、日本基督教会教師試験に合格して、大会において承認を受けた。
郷里の佐渡伝道に使命を感じて、昭和8年(1933)5月に佐渡教会の招きに応じて主任伝道師として就任した。このとき、久野はすでに62歳だった。佐渡教会は明治44年9月1日設立とあり、明治期に盛んであったが大正末期から振るわず、教師派遣も困難な状況だった。こうした過程に久野は使命を覚えて就任したのだった。島内をくまなく駆け巡り伝道に献身した。
佐渡に渡った年の12月5日、日本基督教会東京中会は、臨時東京中会において久野に按手礼を授けた。ここに、日本最初の女性牧師が誕生した。久野は63歳を迎える1ヶ月前だった。昭和16年(1941)1月に70歳を迎えた久野は、9月に老齢のために隠退を申し出て、教会は久野を名誉牧師として推挙した。
昭和24年(1949)9月発行の『日本基督教團年鑑』によると、同年の牧会者は野村穂輔で、陪餐会員数48名、日曜学校生徒数100名という記録になっている。
台北に住んでいる養子の恭次郎のもとに赴いて、困難を極めていた戦時下のカナダ長老派の淡水高等女学校の求めに応じて教師となった。昭和19年(1944)12月8日にマカイ病院で召された。戦後、遺骨は日本に持ち帰られ、郷里に葬られた。 |