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 永井 次代(つぐよ)       明治20年(1887)11月15日〜昭和50年(1975)9月22日
 政治家・永井柳太郎の妻、文部大臣・永井道雄の母。

 牧師の父・三浦徹、母・りうの長女として生まれた。兄太郎、4歳下に妹信夫、さらに4歳下に妹・盛世がいた。三人とも長じて同じ女子学院に学んだ。

 三浦徹は、沼津の水野藩士・三浦千尋の三男として生まれた。長兄、次兄も夭折したために幸三郎として大切に育てられた。
 18歳のとき、外交官になる目的をもって英語の勉強をするために上京し、築地居留地に出入りしていた。英国宣教師デビソンから英語を習っているうちにデビソンの人格に打たれ、外交官の道をやめて、明治8年(1875)、キリスト教に入信、12年(1879)一致神学校を卒業した。食生活もデビソンの影響を受けたのか、朝食はパンとコーヒー、コーンフレークやオートミールだった。

 両国教会牧師を経て、盛岡の下ノ橋教会をはじめ10年余り伝道活動をした。次代の思い出として残った盛岡での徹は、オーブンでローストチキンなどを徹自身が焼いた姿であった。焼きあがるまでオーブンの前に襷がけで、椅子を構えて陣取り、時々中を覗き込んでいた姿だった。盛岡では牧師として多忙であり、母りうが病弱なために乳母がついた。次代にはキクさん、信夫にはミツさん、盛世にはツネさん。特に信夫は老齢になったミツさんを召天まで世話をした。

 盛岡時代の徹は、宣教師ミラー夫人(フェリス女学院の基礎を築いたミス・キダー)に協力して幼童雑誌《喜びの音》《小き音》の主筆をつとめ、児童伝道の先鞭をつけた。また、他の宣教師にも協力して伝道用小冊子の編纂に協力するなど文書伝道者として活躍した。徹が晩年につづった『恥か記』は、日本キリスト教史研究の貴重な資料。東京下落合で、舌ガンのために死去した。

 徹は大変なおしゃれで、公式の場には紋付き袴で出席し、真っ白い足袋は自分の足型に合わせてつくらせた日本橋のみょうが屋のもの以外ははかなかった。次代は柳太郎と結婚後、唯一のぜいたくはみょうが屋の足袋を履くことだった、と綴っている。

 日本で最初の婦人長老になった富士見町教会の河本香芽子、自由学園創立者の羽仁もと子は、盛岡時代の徹が授洗者である。
 明治33年(1900)、盛岡から静岡に移り、2年後に三島教会を大正5年(1916)まで牧した。次代たちきょうだいには三島が第二の故郷になった。当時の母りうは結核を患っていたので、盛岡から温暖な静岡に移転して療養につとめたのだった。

 次代は、寄宿舎から休暇に戻っても母の手を取って談笑することはもとより、部屋の入り口で挨拶をするのみであった。当時は結核に対してなすすべが無く、病人は病と闘い続ける状態であった。りうは明治40年(1907)、死去した。三島での次代は楽しい思い出とともに辛い悲しい体験もした。次代が19歳のとき、兄の友人と婚約をした。病床の母は安堵して喜んでくれた。しかし、母の死後、一方的に婚約が破棄されてしまった。

 次代は、女子学院を卒業した。卒業式は当時の校長矢嶋楫子の親戚徳富蘆花が特別講演をした。次代たちは蘆花の書くものは興味を抱いてよく読んだ。どんな講演かと大きく期待した。ところが演壇をあっちこっちと歩き回りながら歩きながらポツリポツリと話したので、後々、何を話していたのか内容を忘れたが、その光景は次代には鮮明に残った。しかし、蘆花は「女は土である。土は汚いものも綺麗なものも、光も雨も雲も、皆吸収して、そこから多くのものを生み出して育てる。すなわち女は土である」と語ったことが心に響き、女として生まれた幸福感を味わった。

 女子学院を卒業して滋賀県立大津高等女学校で教師となった。大津では英語と音楽を担当した。そのときの生徒のひとりが日本画家として著名な小倉遊亀だった。

 大正3年(1914)4月、永井柳太郎と結婚した。柳太郎は熱心なクリスチャンで、毎朝、個室での祈りを大切にした。
 明雄、愛子(鮫島宗良と結婚)、道雄を産んだ。

 長男の明雄は、大正4年5月24日に生まれた。最初の男子として次代はうれしくなって妹の留学先のアメリカにまで電報で知らせたほどだった。が、昭和21年7月、海軍主計将校として働いていたビルマから引き上げる途中で、戦没した。32歳の短い生涯だった。次代は母としの苦しみや悲しみを讃美歌473番を心のなかで繰り返し歌いつつ神のみ旨に従う心を持った。

 昭和19年(1944)12月4日、夫柳太郎が死去した。次代は、柳太郎の誕生日4月16日に、亡き夫を思いつつ、柳太郎は「若いときに神を知り、何事によらずすべてを神の恵みとして受け、感謝を忘れることがなかった」と記して、誰でもできるだけ若いうちに信仰をもつことの大切さを書き残している。

 
 82歳のときに『いっしょうけんめい生きましょう』を書いたが、出来する間なく死去したので、愛子と道雄の手で出版された。
<やりかけ>永井柳太郎・次代夫妻、道雄の写真
出 典 『いっしょうけんめい生きましょう』
さめじま宗明 生い立ち http://www.gotty.co.jp/samejima/profile/history_01.html#top

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