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 河本 香芽子        慶応年(1866年8月22日)7月13日〜昭和31年(1956)5月30日
 明治〜昭和期のキリスト教伝道者。

<生い立ち> 
 但馬国出石に、父・植松左武郎、母・歌子の三女として生まれた。6歳で同郷の洋学者・加藤正矩の養女となった。加藤正矩は、加藤弘之の実弟であるから、香芽子は加藤弘之の義理の姪に当たる。作家・三宅やす子正矩の実の娘であるから、香芽子とは義姉妹となる。正矩京都師範学校校長を務めた。

<結婚> 
 明治17年(1884)、香芽子は、河本重次郎と結婚した。
 重次郎は、兵庫県の豊岡に生まれた。13歳のとき同郷の先輩に連れられて上京し、横浜の叔父・中江種造宅に寄宿しながらドイツ語学校へ通い、のち東京大学医学部へ進んだ。主席で卒業後、母校の眼科学教室の助手となった。

<受洗> 
 夫・重次郎は結婚した翌18年(1885)留学を命じられて渡欧した。その間、香芽子は養父母とともに盛岡に住んだ。そこで、宣教師・ミラー夫妻(Miller,Edward Rothesay)の感化を受け、同21年(1888)に盛岡教会で三浦徹から受洗した。ミラー夫妻が盛岡に着任した年である。

 宣教師ミラーの妻はフェリス女学院の創立者である宣教師・キダー(Kidder,Mary Eddy)である。ミラー夫妻は明治21年(1888)から34年(1901)まで盛岡伝道に尽くした。ミラー夫人に協力して児童伝道の先鞭をつけた牧師が三浦徹である。文書伝道者として活躍したが、舌癌のために大正14年に召天した。息子に学習院大学教授・三浦太郎、娘の夫に代議士・永井柳太郎、孫に三木内閣時代の文部大臣・永井道雄がいる。

 夫・重次郎は明治22年(1889)に帰国した。眼科学教室主任教授として、以後33年間、その要職にあった。その間、日本の眼科を先進国の水準に近づけ、発展させ、日本近代眼科の父と呼ばれる働きをした。

 夫が帰国したしばらくは教会を遠ざかっていたようだが、明治40年ごろから積極的に教会活動に尽くした。植村正久の牧した富士見町教会の女性長老として活躍したことが、正久の娘でのちに牧師になったによる「父母と我ら」のなかに出てくる。
<やりかけ>
出 典 『植村 2』 『キリスト教人名』 『女性人名』

河本香芽子 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/koumoto_k.html
河本重次郎 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/koumoto_j.html
但馬の百科事典(河本重次郎) http://www.shinkin.co.jp/tanshin/zaidan/1hito/14koumoto/index1.html
但馬の百科事典(中江種造) http://www.tanshin.co.jp/zaidan/1hito/22nakae/index1.html

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