明治〜昭和期のキリスト教伝道者。
<生い立ち>
但馬国出石に、父・植松左武郎、母・歌子の三女として生まれた。6歳で同郷の洋学者・加藤正矩の養女となった。加藤正矩は、加藤弘之の実弟であるから、香芽子は加藤弘之の義理の姪に当たる。作家・三宅やす子は正矩の実の娘であるから、香芽子とは義姉妹となる。正矩京都師範学校校長を務めた。
<結婚>
明治17年(1884)、香芽子は、河本重次郎と結婚した。
重次郎は、兵庫県の豊岡に生まれた。13歳のとき同郷の先輩に連れられて上京し、横浜の叔父・中江種造宅に寄宿しながらドイツ語学校へ通い、のち東京大学医学部へ進んだ。主席で卒業後、母校の眼科学教室の助手となった。
<受洗>
夫・重次郎は結婚した翌18年(1885)留学を命じられて渡欧した。その間、香芽子は養父母とともに盛岡に住んだ。そこで、宣教師・ミラー夫妻(Miller,Edward Rothesay)の感化を受け、同21年(1888)に盛岡教会で三浦徹から受洗した。ミラー夫妻が盛岡に着任した年である。
宣教師ミラーの妻はフェリス女学院の創立者である宣教師・キダー(Kidder,Mary Eddy)である。ミラー夫妻は明治21年(1888)から34年(1901)まで盛岡伝道に尽くした。ミラー夫人に協力して児童伝道の先鞭をつけた牧師が三浦徹である。文書伝道者として活躍したが、舌癌のために大正14年に召天した。息子に学習院大学教授・三浦太郎、娘の夫に代議士・永井柳太郎、孫に三木内閣時代の文部大臣・永井道雄がいる。
夫・重次郎は明治22年(1889)に帰国した。眼科学教室主任教授として、以後33年間、その要職にあった。その間、日本の眼科を先進国の水準に近づけ、発展させ、日本近代眼科の父と呼ばれる働きをした。
夫が帰国したしばらくは教会を遠ざかっていたようだが、明治40年ごろから積極的に教会活動に尽くした。植村正久の牧した富士見町教会の女性長老として活躍したことが、正久の娘でのちに牧師になった環による「父母と我ら」のなかに出てくる。
<やりかけ> |