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富田ヱイ  明治21年(1888)4月9日〜昭和22年(1947)1月9日

 富田ヱイは大阪市大正区の資産家佐々弥三七、阿いの四女として生まれた。佐々弥三七は熱心なクリスチャンであったから、自らが洗礼を受けた日曜日にヱイが誕生したことをことのほか喜んだ。神の栄光を現す人になるようにとの祈りをこめて「ヱイ」と名づけられた。

 祝福されて生まれ育ったヱイは、両親の通う組合系の教会で信仰を育まれつつ、明治37年大阪府立堂島高等女学校を卒業した。同校の補修科を経て、日本女子大学校家政学部に入学した。

 日本女子大学校には一年下に丸山千代がいた。お互いに校長成瀬仁蔵の人格教育に基盤を置いた社会福祉教育思想に触れ、卒業後も仕事のうえでよき理解者であり、相談相手となった。

 明治41年3月、日本女子大学校家政学部を卒業したヱイは、その年の5月に石井十次が経営する岡山孤児院に就職した。社会事業家としての第一歩を踏み出したのである。

 当時の岡山孤児院はイギリスのバーナード孤児院の制度を採油して家族的処遇方法と委託制度を実施していた。ヱイは「お母さん」として、保母の仕事についた。

 岡山孤児院でヱイは将来の伴侶となる富田象吉と出会う。富田象吉は明治40年12月、岡山孤児院庶務主任として就職していた。ある日、石井十次の講演で感動し、岡山孤児院を訪問して就職したのである。富田象吉は石井十次の信頼を得て、明治42年大阪分院主任に任職している。

 45年3月、ヱイは岡山孤児院が日向茶臼原に移住するに際して大阪分院に異動し、二月後の5月にヱイと富田象吉は結婚した。

 ヱイの父佐々弥三七は、大阪の資産家であり、娘にはそれなりの縁談もあり、相応の地位や財産に恵まれた相手を願っていた。岡山孤児院への就職、そして結婚には父親としてためらいがあった。しかし、ヱイの強い願いを受け入れ、その後は娘夫婦に対して援助を惜しまない両親であった。親のキリスト教信仰を証する出来事と受け取ることが信仰者としての心情であろう。なぜならば、ヱイの誕生日に神の栄光を現す信仰者として育つことを神と人の前で祈りをささげた両親の真実な神への願いであり約束であるからだ。

 そうした両親の信仰に基づく愛に加えて、「象吉さんのすることならまちがいない」と語るほど、富田象吉に対する両親の信頼が厚かった。困難な仕事に対する両親の理解と援助、夫と力をあわせて働ける心強さは、ヱイの活動に大きな支えとなったことであろう。ヱイと象吉はともにその後、石井記念愛染園の仕事に生涯をかけたのである。

 大阪で最も古い保育所である愛染橋保育所(石井記念愛染園の前身)は、石井十次が設立した保育所である。設立動機は、夫を亡くして幼い子連れの母親が就職に困って母子心中を図った事件であった。都市ではこうした事情の人が大勢いるだろうとの思いから石井十次は、翌日から保育所設置場所を捜し歩いた。

 やっと愛染橋西詰の通りを北へはいる小路の奥に4軒長屋の人家でない木挽小屋を見つけた。これを改造して保育所として開設したのが愛染橋保育所のはじまりであった。

 愛染橋保育所の置かれた場所は、大阪でも名高い貧民窟であった。『岡山孤児院年報』その他によると、「この辺一帯は昔、長町といいわけて、保育所のある所は、聞くもおそろしい蜂の巣、蜘蛛の巣という市内でも名高い貧民窟の真中にあたるのである。あっちのおでん屋の横町、こっちの下駄の歯入屋の軒下と、三尺ばかりの路が幾筋にも切れあい、数限りなく立ち並んでいる。この狭苦しい家の中
には、二家族、三家族が共同生活を営んでいる。故に、衛生的にも風紀的にも、いたって醜悪なものである」と、報告されている。

 こうした状況は、東京都の四谷に開設した野口幽香の施設、また丸山千代が開設した日暮里や巣鴨にも感じられたことだと十分に推測できよう。

 石井十次が奔走してやっと見出した、いたって醜悪なものと悪評の高い場所で愛染橋保育所は、明治42年から始められた。

 「児女多クシテ家計困難ナル労働者ノ為ニ其子女ヲ預リテ昼間保育ヲナ シ傍ら附近児女ニ夜学ヲ授ケ且困窮者ニ対シ必要ナル補助ヲナスヲ以テ目的トス」

 として、昼食と10時、3時のおやつも出して、保育料2銭をとっただけだった。これが大阪人には信じられないと、「阿呆らしいそんな事が出来るもんか、胆とるで、血ぬいて薬にしよるで」と、罵るものまで出た。だが、このようなことよりも、富田夫妻にとって最も落胆させられる出来事が起こった。それは、大正3年(1914)1月、石井十次が死去したことである。

 大正5年11月、岡山孤児院評議会は大阪の事業を孤児院から分離独立させる方針を決定し、大原孫三郎を常務理事とする財団法人石井記念愛染園が設立された。こうして愛染橋保育所は新しい構想のもとに再編成された。

 大原孫三郎は、実業家であるが社会事業に惜しみなく手を伸ばし、種々の施設に協力してきた社会事業家でもある。倉敷市の大原美術館の創設、大原社会問題研究所、倉敷労働科学研究所などを私財を投じて創設した。

 大正12年、ヱイは愛染園幼稚園園長となり、富田象吉の妻として主婦業に終わることなく、よき相談相手であり、同僚であった。細民家庭を考慮して徳性の涵養、しつけに注意を払った。

 園長としての仕事の合間に、愛染園の様子を母校の卒業生の会・桜楓会発行の『家庭週報』に投稿したり、『社会事業研究』に意見を発表するなど、文筆活動を続けた。園外の研究会にもしばしば出席した。

 家庭と仕事を両立させ、子どもらの衣類はいっさいヱイ自身が縫って着せた。しかも、富田一家は愛染園のなかで園児らとともに暮らした。しかし、愛染地区の不衛生さにより6人の子どものうち3人が伝染病で幼児期に亡くなった。

 子どもの死のこともあり、一時、堺市三宝に転居したが、昭和9年の室戸台風により家が押し流され、再び愛染園内に住まいを移した。親子が愛染園で暮らすことは子どもに犠牲が大きいが一方で親の仕事を理解するという意味でよかった、と振り返っている。

 子どもらに対しては親の仕事を手伝うことを強要はしなかったが、自然と親の仕事を理解し、親を助けたい気持ちが育まれた。こうした心情は、山室軍平・機恵子夫妻、賀川豊彦・ハル夫妻らその他、この道を賢明に生きている誠実な親の歩み、子どもを思う親心、また親の生き様を通して間接的に学び感受されたものであり、相互に共通している。

 愛染地区が非常に不衛生であることから、富田象吉は早くから衛生管理と施療所の必要を痛感していた。やっと、昭和9年10月、愛染橋診療所が開設され、11年には鉄筋コンクリート三階建ての愛染橋病院が開院する運びとなった。

 こうして徐々に愛染園の組織が確立し、地域に定着するようになった。
 昭和10年、第八回全国社会事業大会において富田象吉は社会事業に30年以上従事した功労者として表彰された。

 そのとき、象吉は「私がいただくよりは家内がいただくべきものだ」と受賞の挨拶の際、述べた。ヱイは、夫象吉が社会事業30年以上の功労者として表彰された大会に一緒に上京して参加していた。夫が受賞したときの挨拶の言葉を聞いた時、感動したことであろう。

 ヱイはたんに妻として内助の功に留まらず、同僚として共に福祉事業に真剣に取り組んだ女性であった。その大会で、ヱイは母子保護法制定の討議の場に参加し、山田わかの提案説明を聞いた。またヱイ自身も賛成意見を述べた。

 山田わか(1879〜1957)は、貧しい農家の8人きょうだいの4番目に生まれ、尋常小学校を終えただけで家事手伝い後アメリカに渡り山田嘉吉と結婚した。以後、山田嘉吉を通して多くの学びをし、東京朝日新聞女性相談担当者として6年間過ごした。夫の死後、母子保護法制定運動を展開、事業実践者として活躍した、数奇の人生行路の女性である。機会があれば、取り上げたい。

 山田わかの意見に賛成したヱイ自身の母子保護法に関する考え方は、大略、次のようになるだろう。

 家庭生活は国民生活の基本であり、家庭の母の仕事は第二国民を養成するためである。児童を養育することは親の義務であるが国家も責任を分担すべきだ。社会的救護施設に収容保護すればよしとする考えではなく、家庭を崩壊せずして保全策を講じるために保護法を制定すべきだ。

 愛染園が施設として確立し、世間に知られるようになるにつれ、夫象吉は社会事業運動の先覚者として各種団体の指導者として多忙となり、昭和17年秋、肺結核に倒れ、翌年10月、闘病むなしく死去した。ヱイは夫亡きあと、愛染園の理事として戦中・戦後の困難な運営の責任者となった。

 医師、職員、看護婦の応召や徴用が相次ぐなか、金属類は病室のベッドにいたるまで供出させられるといった苦労があった。昭和20年2月、空襲によって愛染園本館は焼失し、保育所などの隣保活動施設はすべて無となった。

 病院本館だけが焼失を免れたものの、日本医療営団に接収され、愛染園の機能は麻痺状態に陥った。戦後、独自の医療活動を再開したものの、長年の疲労と心労からヱイは、昭和22年1月9日、58歳で死没した。

 かつて学生時代に寮で起居を共にした元日本女子大学学長上代タノは、ヱイのことを「信仰心のあつい、地味で真面目などこにいるかわからないような静かな方でしたが、皆から信頼されていた人でした」として、内に秘めた情熱と実行の人であったと印象を語った。

 息女茨木真理子は、母ヱイについて語った。
 岡山孤児院に就職、生涯を喜びをもって愛染園とともに歩ませた源はキリスト教信仰であり、その指針は聖書である。支えとなったのは夫象吉をはじめとして同じ信仰、同じ社会事業に携わる友人たち。賀川豊彦、山室軍平、浜田光男、外崎外彦、小橋かつえ、林歌子、丸山千代ら。中でも石井十次の人格とその背後にあって動かした信仰が一番の励ましであり力であった。

 明治20年(1887)〜21年(1888)は、場所を異にして「社会事業に生きた女性」が、この世に生を受けている。
 ★丸山千代:20年 5月28日、米沢
 ★徳永 恕:20年11月21日、東京市牛込区下戸塚町
 ★賀川ハル:21年 3月16日、横須賀
 ★富田ヱイ:21年 4月 9日、大阪市大正区三軒家町
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出典:『女性人名』『社会事業』