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山田 わか   明治12年(1879)12月1日〜昭和32年(1957)9月6日

 今回は、波乱万丈の人生行路を歩んだ「山田わか」を取り上げる。山田わかは、昭和初期の婦人運動家として知られている。

 わかは、明治12年12月1日、神奈川県三浦郡久里浜村で、父浅葉弥平治、母ミヱの8人きょうだいの4番目に生まれた。家は貧しい農家であった。

 明治23年久里浜尋常小学校を首席で通したが、通学は4年で終え家事手伝いをする。やがて明治29年8月、17歳になったわかは同郡横須賀町小川の荒木七治良と結婚する。だが、10歳年長の夫は吝嗇だったこともあり、実家の没落を機に離婚した。

 18歳のとき、兄を助けるために上京したが、横浜で女衒に騙されて渡米し、シアトルで娼婦アラビヤお八重の名で26歳まで暮らし、新世界新聞の立井信三郎記者に助けられ脱出した。サンフランシスコに着くと立井からも逃れてキリスト教長老派教会の娼婦救済施設キャメロンハウスに逃げ込んだ。わかの裏切りに立井は自殺した。

 サンフランシスコで英学塾を開いていた
山田嘉吉の塾に入り、明治38年ごろ、塾長で社会学者の山田嘉吉と結婚した。

 わかの夫となる山田嘉吉は、わかと同じく神奈川県の中郡高部屋村に慶応元年12月に生まれた。明治18年に渡米して20年間在米し、塾を開催。語学の天才でほとんどの外国語に通じ、哲学、医学、社会事業にも造詣が深かったが独学であった。
市川房枝は山田門下生で、スエーデンの女流思想家エレン・ケイの原書によって語学教育を受けた。大杉栄も塾生でフランス語を学んだ。

 嘉吉のアメリカ生活も農夫・土工・船乗り・コックなど波乱に満ちたものであったといわれている。わかはこのような嘉吉によってアメリカでの苦界からの脱出を助けられ、天性の純真素朴で善良な資質を開花結実させていく。

 わか自身が「私は小学校も卒業しない無学の者です。私に文字の世界を教え、私に思想を与えてくれたのは夫です。私を人間にしてくれたのも夫です。私は夫を神が私の為に特に造ってくれた人間ではあるまいかと思っています」と、しばしば語った。

 明治39年6月、帰国して東京四谷区南伊賀町に住み、嘉吉は外国語を教える塾を開いた。昭和初期、嘉吉は脳溢血で倒れ、8年間の病床生活を送ったが、わかは献身的な看護にあたった。香典返し500円が寄付されて、今後のわかの本領を発揮する母性保護連盟結成時の活動基金となった。

 わかは、昭和6年からほぼ6年間を東京朝日新聞の女性相談担当者として紙上に縦横な筆陣を張った。わかと
三宅やす子が担当で5月1日から始まった。
 同年12月31日の紙上で「悩める人たちへ送る私の言葉」を書き、12月25日までに17,052通の相談が寄せられたが、その内容は結局、愛欲と食欲の二種類に大別できるとして、男性の横暴とその野獣性を告発している。

 新聞紙上での身の上相談は、批判もあるが、一種の読み物として読者に興味と関心が要求されるためにしばしば興味本位に取り扱われることがあるとされた。それでもわかは担当した6年間、あるときは苦しみ、あるときは怒り、常に自分自身の痛みとして、涙の淵に共に泣いて回答に取り組んだ。巨体を崩さずに正座して机に向かい謹厳な気構えで執筆し、一回もゆるがせにしたことがなかった。

 わかの回答のなかで論議を呼んだものが少なくなかったが、昭和7年3月30日掲載の「盗人に妊娠せしめられた」問題に、「生んで育てよ」と回答して反響を呼び、堕胎可否論がたたかわされ、法律の社会性についてまで議論が展開した。

 山田わかの断案が多くのファンを作ったが、昭和12年2月19日を最後に予告なしに朝日の女性相談欄は消え、山田わかも退場した。

 一方において、わかは昭和9年(1934)9月29日に発足した「母性保護法制定促進婦人連盟」の委員長をつとめた。

 朝日新聞の執筆の場を急に失ったが、主婦の友社の
石川武美社長がわかを迎え入れた。わかを深く信頼していた石川社長は、すでに昭和9年から顧問として委嘱し、座談会、インタビューなどの記事を担当させていた。

 昭和12年秋、石川は日米関係が悪化し、対日感情が険悪なアメリカに半年渡って、わかを遣米婦人使節として派遣することを決めた。すでに日中戦争をおこし、第二次世界大戦前夜の情勢のなかで、どれほどの期待が相互にあったのかは不詳であるが、昭和12年12月から翌13年4月号まで5回にわたってアメリカからの通信が掲載された。

 30幾年ぶりかで「米国の土を踏んだ」わかはアメリカ各地の遊説の旅を続け、「デマ渦中の同胞に祖国の真の姿を伝え、大統領夫人をはじめアメリカ朝野の婦人に、日本の母心で説いて多大な成果を収め、メキシコ、ハワイにも回って帰国した」と報じられた。

 主婦の友社は昭和13年、新館の竣工を機に、読者奉仕部を拡充して相談室を開設し、わかは毎週月曜日に出社して相談に当たることとなり、これは戦後まで続いた。

 石川社長はさらに昭和16年春、「盟邦独伊」へ親善使節としてわかを送った。だが、独ソ開戦によって帰路を断たれ、欧州各地を通り抜けて大西洋を南米にまわり、太平洋上で日米開戦をきいて昭和16年12月中旬帰国した。9ヶ月にわたる決死的世界一周をわかは経験したのだった。

 山田わかの社会事業への志向はどのようなものであったかは詳らかではない。夫嘉吉の存命中は経済的にも時間的にもゆとりがなかったが、偶然にも夫の死後、起こった
母子保護法の制定運動に積極的に参加することが、わかの後半生の生き方を決定づけるものとなったことは確かである。

 嘉吉と死別して2月後の9年9月、わかは母性保護法制定促進婦人連盟の初代委員長に就任した。12年3月、運動の成果として母子保護法が国会を通過した。

 わかは嘉吉と「結婚したとき3千何卷という洋書を持っていた」と語ったが、いつも丸善への書籍代の支払いに追われていた。自宅の地下の書庫は書物で埋まっていた。書庫は戦災を免れたが、嘉吉の蔵書は戦後売却されたので、嘉吉の読書傾向や研究経過等の足跡はたどることができない。

 わかは嘉吉の影響でエレン・ケイの母性主義に傾倒し、母性保護思想を形成していった。嘉吉の塾生であった大杉栄を通して
青鞜社に接近したわかは、『青鞜』に大正2年(1913)2月にオリーブ・シュライネルの評論を翻訳紹介して以来ほぼ毎号、アメリカ社会学者レスター・ウォードの女子教育論、そしてエレン・ケイの児童の世紀などを『青鞜』の最終号まで掲載していた。

 特にエレン・ケイの母性尊重主義の紹介は大正期の婦人解放思想に大きな影響を与えた。大正5年に『青鞜』が廃刊になると
新婦人協会に参加し、個人誌『婦人と新社会』を9年に創刊するなど活発に活動した。

 その間、
与謝野晶子らと母性保護論を展開した。与謝野晶子は女性の経済的自立を説いたのに対して、わかは家庭を守るべきだと主張した。

 わかの家庭中心、母性尊重の婦人論は、女子には母性の本能があり、この母性こそ愛の源泉であり、創造の神秘をもっている女性を保護するのは全人類の義務である。母性愛を拡張して平和な世界を築こうという展開である。男女同権というよりは、女には女の歩む道があるとの主張である。

 この生命愛護の精神から家庭を守ることに集中し、社会事業家も母の仕事を完成させるための手伝いをする人と解される、と主張している。

 こうした論理に基づいて独創的な発想により事業をおこし、母性保護運動の資金つくりと、要保護母子の救済にあたることを考えた。それが廃品回収である。事業として西大久保に廃品処理場の認可を受け、わかは回収業の鑑札をうけて本格的に営業するのだった。

 廃品業者からの迫害にもめげず、収益の一部を母性保護連盟に寄付し、一部を蓄積するなどして後に母子寮や保育園の建設の実現を見るのであった。

 昭和20年5月の空襲により施設も自宅も焼失して事業は休止状態となった。だが、22年4月、東京都における戦後処理緊急援護事業の一環として婦人保護事業を開始することとなり、
幡ヶ谷女子学園を開設して売春婦の保護更生にあたった。そこは職業的自立を目指す生活教育と技術教育を中心とした教育の場であった。

 昭和27年、社会福祉事業法の施行により法人名を社会福祉法人婦人福祉会と改め、引き続き養嗣子民郎を中心として事業をすすめた。民郎は学校の教員を退職してわかの仕事に専念し、売春問題ととりくみ、施設長会をまとめ、売春防止法の制定に意欲的に活動した。

 民郎に事業の大半を任せたわかは昭和21年に再開された主婦の友相談室に週一回通うことと、家庭裁判所調停委員として活躍する以外は他出することなく、書斎で読書を楽しんでいた。

 昭和39年9月6日、心筋梗塞で78年の生涯を閉じた。
 著書に『女・人・母』『恋愛の社会的意義』『現代婦人の思想とその生活』『婦人問題概観』などがある。(終わり)

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石川武美

 『主婦の友』の創設者。大分県の農家の次男。上京して二宮尊徳の勤労節倹・自主独立の精神を学び、本郷(弓町本町)教会に出席して海老名弾正から受洗。
 『婦人之友』『新女界』の編集を経て、(1917)3月に『主婦の友』を創刊。3年後には日本雑誌界第一位の発行部数を誇るまでに成長。婦人のためのお茶の水図書館を設立。女子教育にも貢献。

 

 

出典

『女性人名』『社会事業』